スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告
正信偈の中に「万善の自力、勤修を貶す、円満の徳号、専称を勤む」という一節がある。「多くの善を積み、自力の修行を積んでも無駄である。だから、仏の御名を只ひたすらに唱えよ」という意味だと解釈している。毎朝、読経していてこの行が気にかかって仕方がなかった。だが、最近何か見えてきたようにも思う。
 つまりそれは神(大いなる汝)との関係の中に生きるということが、真の信仰であるとすると、大いなる汝との出会いに向けて一歩を踏み出すことにすべてがある。しかし、神を求めていくら厳しい修行や学問を積んでも神を一種の経験の対象として探求することは無駄だという意味だと思う。もともと我々は大いなる汝(神)と常に向き合っているのであり、肝要なことは、「祈り、語りかける」(汝と我の関係の中に生きる)という決断と行動であるという意味ではなかろうか。私は「横超」という言葉の意味もそのことではあると信じている。
 自分が青年の頃から眺めてきたマルティン・ブーバーの著書の一節に「神はそれ自体明らかにされるべきものである。神以外のいかなるものからも推論されるべきものではない。神とはまさに、直接、身近に、そして最も永続的にわれわれと向き合う現存であり、ただ語りかけられるだけで論述され得ない存在なのである」とある。
 「南無阿弥陀仏」と唱えることは大いなる汝に語りかけ、その言葉の内にあって、大いなる汝の眼前を生きることである。
 「祈りは時間のうちにはない、時間こそ祈りのうちにある」、これもブーバーの言葉である。
スポンサーサイト
【2008/09/09 16:30】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
<<タイトルなし | ホーム | タイトルなし>>
コメント
お久しぶりです。
私は「南無阿弥陀仏」と唱えるときは、いつも短い経文(念仏門)の中で、3*7=21回「南無阿弥陀仏」と繰り返します。そのときいつも仏様が、涅槃寂静の姿勢で微笑みかけてくださっている表情を思い浮かべます。
 仏様はすべてを許してくださっている、だから正しく生きなければならないという気分になります。同時に、とても幸せな気分になります。
【2008/09/13 05:14】 URL | zazen256 #-[ 編集]
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL
http://kounit.blog74.fc2.com/tb.php/310-a385d037
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
自分の言葉で哲学しよう!


幼稚と言われてもいい、とにもかくにも、自分の言葉で考えて表現してみよう。人間について、自然について、人生について、毎日一回、素朴な哲学者になって、考えてみよう!

プロフィール

SimoYokote

Author:SimoYokote
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。