スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告
親愛なる友へ
 あなたの提示された文章は私には、とても難解です。
 でも、ここに書かれている経典の言葉は、まさしく、私が今、「とても難解」と思うそのこと、つまり、他者の精神を理解することの困難を説いているように思います。
 では、「知も無知も実体的存在ではないこと」を知ることが真の知であるということ、また、「その真の知も実在的に在るわけではない」という言葉は、どのよう理解すればよいのでしょうか。
 私は、皮相な理解かもしれませんが、簡単に言えば真の知のマニュアルはないということではないかと思います。つまり、真の知を言葉で説明することは不可能であるということです。それが可能であれば、誰よりも釈尊自身が、それを言葉によって書き残したと思います。
 真の知は言葉では表すことのできないもの、言葉では人に伝えることはできないものという意味です。
 このことは、70才の自分が20才の孫に自分の人生観を伝えるとの難しさ想像するなら納得がいきます。
 また、 「知は他の知の対象にはならない」とは、ここでの知とは真の知を指すものと思いますが、それは、神が我々の理解の対象とはならないと同意味ではないでしょうか。つまり、万巻の神学書を読破しても我々は信仰の道を歩むことができるとは限りません。むしろ、神学的な知識のない多くの人々が信仰の道に入っているはずです。
 私は、貴兄が言われる「総合的、直感的に知る」ことは、やはり、「悟り」に通じる真の知であると思います。
 最後に、私は貴兄の「知恵を生み出すためには具体的に得られた知にこだわらないことが大切である」という言葉に私なりにとても同感します。
 確かに、我々は数十年も生きてくる間に多くの経験から得た知を持っています。その知にこだわり過ぎることは、貴兄がいわれる総合的、直感的な理解の妨げになることもあると思います。
 そして、このことをもう少し拡大して考えると、我々現代人は、今日、あまりにも科学的な知識にこだわり過ぎていないでしょうか。そのことが結果的に、自らの人生に対する「真の知」の感得を困難にしてしまっていると思うからです。実証科学を信奉するあまり、我々は人間としての自由な精神活動を阻まれているように思います。
 科学は、科学的実証によって世界や人間を理解する流儀です。しかし、我々はかけがえのない人生を生きているのです。ひとつの流儀に縛られることはないのではないでしょうか。
 

 私の頭脳はこのような深遠なテーマを考えるには回路不足であるらしく、頭が痛くなりましたので今日はこのくらいで止めたいと思います。
 また、間をおいて貴兄の貴重な文章を自分なりに読学させていただきたいと思います。そして自分のブログに、この文を載せて置き、補足していきたいと思います。どうぞ、御指導をくださいますようお願いします。
 経典など読んだこともない人間が的外れなことを書くことに本当に恐縮しております。どうぞ、失礼の段お許しを願います。
 しかし、私にとってはこの歳にして初めて人生についていつでも気ままに語れる人と出会えたことはこの上ない幸せであります。WEV2.0の時代にようやく間に合ったことを神に感謝しているところです。



スポンサーサイト
【2008/02/12 18:20】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
<<タイトルなし | ホーム | タイトルなし>>
コメント
拝復
 私のブログを読んでいただいたうえに深く検討してくださいまして心から感謝します。ありがとうございました。
 貴兄は「経典など読んでいない人間」などと謙遜されていますが、経典にはそれを読み続けているかいないかで区別されるような内容のことは何も説かれていません。経典にはありのままのことしか説かれていないと私は思います。極端なことを言えば、小学生にでも納得できるような内容であるとあると思います。その内容を如何に受け入れるかが大切であると考えています。
 私から見れば、貴兄のほうが格段に深く思索生活をされていると思います。

 ところで、真の知については、まさしく総合的・直観的なものであると思います。

 私は「知恵を生み出すためには具体的な知にこだわらないほうがよい」と書きました。そして、貴兄はそれに賛同してくださって、現代の過度の科学依存社会の弊害の原因もここにあるというように述べられています。 私も同感です。
 しかし、一面では知にこだわるからこそ、それが発展し他の知を誘導し、また知恵も生まれるということも事実であると思います。
 知にこだわったり、こだわらなかったり、というように、偏った見方が良くないと思うのです。このような逆説的手法で物事を処理せよという教えは仏典の中に良くでてきます。
 要するに、物事はすべて、どちらかに偏らず、ありのままに受け入れなさいということであると私は思います。
 「誰にも利く熱ざまし」と「車の構造図」の件につきましては、仏教的?に解釈すれば、少し視野が狭い見方であると思うのですが、如何でしょうか。例えば「道端の一本の草は青い」ということも真の知になるということと同じことではないかと思うのです。この辺のところに迷いが生ずるのではないかと、私は思います。
 私はこれからも、悩みながら、頭を混乱させながら少しずつ仏典を読み続けていこうと思っています。
 今後とも何卒よろしくお願いします。


【2008/02/14 04:13】 URL | ZAZEN256 #-[ 編集]
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL
http://kounit.blog74.fc2.com/tb.php/283-0d17b1dd
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
自分の言葉で哲学しよう!


幼稚と言われてもいい、とにもかくにも、自分の言葉で考えて表現してみよう。人間について、自然について、人生について、毎日一回、素朴な哲学者になって、考えてみよう!

プロフィール

SimoYokote

Author:SimoYokote
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。