親愛なる友へ HP制作上のトラブル発生で、数十時間のロスタイムなど日常のこと、楽しみにしていた貴兄のブログを拝見するのが遅くなりました。 ようやく、今朝拝読しました。
今回は、哲学的に読みとっても、哲学の核心にふれた考え方が語られているようには思ますが、難解ですね。 いつものとおり浅学で独断的な私の解釈ではありますが、人間の認識と事物の存在の実相を宗教的な見地から喝破した文章と思います。 確かに、我々俗人を苦しめ悩ました事物も、「因縁」が切れたときには、一体そのようなものがどこに存在したのか、と言いたいほどにきれいに「滅」し去っているように思います。 つまり、人間の心を捉えて離さなかった事柄も因縁が切れたときには、興味も関心もない自分には無縁な事となります。 このことを更に発展的な考えると、他の色々な事象についても当てはまるように思います。 地動説は現代人の常識ですが、ほとんどの人は太陽や月が動いているという感覚の中で生きています。しかし、だれも地動説を否定する者はありません。 我々は、地動説も天動説も超えた現実のなかで生きているわけです。同様の意味で、我々は生も死も超えた現実の中で生きているのではないでしょうか。しかし、死は避けることはできない現実です。 貴兄の言葉を借りれば死は因縁によって我々の心に生じます。不治の病の診断を受けたときには、我々は死の観念に昼夜悩まされることになります。しかし、それが誤診であったとなれば死について想うことはなくなり、今度は、生の中で様々な事で悩まされることになります。 貴兄の言われる「涅槃の究極」とは、この捉われの世界を超えた世界、つまり涅槃の世界のことでしょうか。 「涅槃(の究極)はことばによって表現されえず、すべての言語表現の断たれているものである」とありますが、まさにそれは、その人間の心の世界でしか感得することができない悟りの境地であるといえるのではないでしょうか。
まことに、見当はずれな解釈とお叱りを受けそうな気がしますがこの歳になると、色気もなくなり、諸説を自分の能力内で自分流に自由に解釈することで開き直って生きております。 ご指導をお願いします。
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