親愛なる友へ あなたの提示された文章は私には、とても難解です。 でも、ここに書かれている経典の言葉は、まさしく、私が今、「とても難解」と思うそのこと、つまり、他者の精神を理解することの困難を説いているように思います。 では、「知も無知も実体的存在ではないこと」を知ることが真の知であるということ、また、「その真の知も実在的に在るわけではない」という言葉は、どのよう理解すればよいのでしょうか。 私は、皮相な理解かもしれませんが、簡単に言えば真の知のマニュアルはないということではないかと思います。つまり、真の知を言葉で説明することは不可能であるということです。それが可能であれば、誰よりも釈尊自身が、それを言葉によって書き残したと思います。 真の知は言葉では表すことのできないもの、言葉では人に伝えることはできないものという意味です。 このことは、70才の自分が20才の孫に自分の人生観を伝えるとの難しさ想像するなら納得がいきます。 また、 「知は他の知の対象にはならない」とは、ここでの知とは真の知を指すものと思いますが、それは、神が我々の理解の対象とはならないと同意味ではないでしょうか。つまり、万巻の神学書を読破しても我々は信仰の道を歩むことができるとは限りません。むしろ、神学的な知識のない多くの人々が信仰の道に入っているはずです。 私は、貴兄が言われる「総合的、直感的に知る」ことは、やはり、「悟り」に通じる真の知であると思います。 最後に、私は貴兄の「知恵を生み出すためには具体的に得られた知にこだわらないことが大切である」という言葉に私なりにとても同感します。 確かに、我々は数十年も生きてくる間に多くの経験から得た知を持っています。その知にこだわり過ぎることは、貴兄がいわれる総合的、直感的な理解の妨げになることもあると思います。 そして、このことをもう少し拡大して考えると、我々現代人は、今日、あまりにも科学的な知識にこだわり過ぎていないでしょうか。そのことが結果的に、自らの人生に対する「真の知」の感得を困難にしてしまっていると思うからです。実証科学を信奉するあまり、我々は人間としての自由な精神活動を阻まれているように思います。 科学は、科学的実証によって世界や人間を理解する流儀です。しかし、我々はかけがえのない人生を生きているのです。ひとつの流儀に縛られることはないのではないでしょうか。
私の頭脳はこのような深遠なテーマを考えるには回路不足であるらしく、頭が痛くなりましたので今日はこのくらいで止めたいと思います。 また、間をおいて貴兄の貴重な文章を自分なりに読学させていただきたいと思います。そして自分のブログに、この文を載せて置き、補足していきたいと思います。どうぞ、御指導をくださいますようお願いします。 経典など読んだこともない人間が的外れなことを書くことに本当に恐縮しております。どうぞ、失礼の段お許しを願います。 しかし、私にとってはこの歳にして初めて人生についていつでも気ままに語れる人と出会えたことはこの上ない幸せであります。WEV2.0の時代にようやく間に合ったことを神に感謝しているところです。
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