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わが友へ
「同じ対象物であっても、時と場所と関心の持ちようが変われば、その相は全く別の面が現れてくるということになります。知もまた、別の知が得られることになります」「知とか知恵とは、一冊の本とか一つの事物というような特定のものから得られるものではないのです」
という貴兄の言葉に私は共感するとともに、何かほっとするものを感じました。若い頃から、私は自分なりの読書を続けてきましたが、人間形成と読書ということになると歳とともに次第に悲観的になってきたように思います。
読書は人間形成にそれほど役立たないばかりか、一面では阻害要因となっているような気さえしました。
しかし、貴兄の考え方によれば、今まで自分が読んで得た知性や感性は自分の心の中で渾然一体となって働き続けているということになります。
確かに、私にも分かるような気がします。具体的に痕跡は認められなくとも自分が今まで傾倒した先達の影響を感じるような事がしばしばあります。もちろんそれは、読書に限らず、生身の人間関係、とりわけ子どもの頃の親や兄弟や友の影響もありましょう。
いや、慣れ親しんできた自然、特に自然がみせる美しい姿、若葉が夕日に光る様、光る海、我々はそうした自然と対峙し語りかけられ、応えるような、かけがえのない多くの経験が渾然一体となって形作られた感性を自己のうちに感じます。それは、自己そのものであって理屈を超えたものであると思います。
このような考え方は、仏教的というより自分には非常に人間的な健全な考え方のように思われます。
ここから、再び、私は、先般書きました「学ぶ」ということの真の意味が分かってくるような気がします。
つまり、経典から学ぶのではなく教典の言葉によって自己に学ぶといえるように思います。
出るに任せて書きっぱなしで恐縮です。自己のブログに載せて再考してみたいと思います。どうぞお読みなりましたら削除ください。ご指導感謝します。

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【2008/02/20 17:33】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
若い頃は人間の思考の世界も大宇宙のように果たしなく無限の可能性に満ちた世界であるように思ったものだ。
【2008/02/20 10:44】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
「汝自身を知れ」はソクラテスの座右の銘であるが、我々凡人は自己を知ったつもりでいることこそを警戒しなければならない。むしろ、我々に必要なことは今知っている自己のしがらみから抜け出して新しい生き方を身につけることである。
【2008/02/19 19:15】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
朝ニ道ヲ聞カバ夕ニ死ストモ可ナリ。道など大それたことでなくてもよい、食事をゆっくりと味わって食べることでもよい、死ぬ前に身につけたいものだ。
【2008/02/17 04:52】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
早速、ご返事を頂き感謝します。貴兄の「経典はそれを読み続けているかいないかで区別されるような内容のことは何も説かれていない。いかにそれを受け入れるかが大切」との言葉は、貴兄と共に経典に学ぼうと発起した私に自信を与えてくれました。
確かに、貴兄が言われるように、私も、学ぶということは 学ぶ対象を、こちらがいかに受けとめ受け入れるかにかかっている行為だと思います。
先日、思考メモに「学ぶ〔生きることについて〕ということが、どういうことであるか。この歳になってだんだん明確になってきた。我々は、学ぶ対象、師〔人や書物〕について、とやかく言うが、実は、学ぶということの、ほとんどすべてが此方側〔自分自身〕の問題なのだ。翻って考えるなら、教えるということが、どういうことかも自ずと明確になる。」という文を書きとめましたが、貴兄のおっしゃることと通じると思います。
また、「知恵を生み出すためには具体的に得られた知にこだわらないことが大切」については、おっしゃるとおりだと思います。ただ、科学万能主義とも言いたい今日、とくに生命科学の分野では、人工的な生命の誕生や人間の脳の解明から人間の心の仕組みの解明にまで迫る勢いを感じます。こうした現代に生きる我々人間の精神環境はかつてなく厳しいと言ってもよいのではないでしょうか。そうした意味で私はこの言葉に強く共感した次第です。
いずれにせよ。これから、貴兄が提示された経文を私なりに読ませていただきご助言をいただけることありがたく思います。よろしくお願いします。



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【2008/02/14 06:22】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
親愛なる友へ
 あなたの提示された文章は私には、とても難解です。
 でも、ここに書かれている経典の言葉は、まさしく、私が今、「とても難解」と思うそのこと、つまり、他者の精神を理解することの困難を説いているように思います。
 では、「知も無知も実体的存在ではないこと」を知ることが真の知であるということ、また、「その真の知も実在的に在るわけではない」という言葉は、どのよう理解すればよいのでしょうか。
 私は、皮相な理解かもしれませんが、簡単に言えば真の知のマニュアルはないということではないかと思います。つまり、真の知を言葉で説明することは不可能であるということです。それが可能であれば、誰よりも釈尊自身が、それを言葉によって書き残したと思います。
 真の知は言葉では表すことのできないもの、言葉では人に伝えることはできないものという意味です。
 このことは、70才の自分が20才の孫に自分の人生観を伝えるとの難しさ想像するなら納得がいきます。
 また、 「知は他の知の対象にはならない」とは、ここでの知とは真の知を指すものと思いますが、それは、神が我々の理解の対象とはならないと同意味ではないでしょうか。つまり、万巻の神学書を読破しても我々は信仰の道を歩むことができるとは限りません。むしろ、神学的な知識のない多くの人々が信仰の道に入っているはずです。
 私は、貴兄が言われる「総合的、直感的に知る」ことは、やはり、「悟り」に通じる真の知であると思います。
 最後に、私は貴兄の「知恵を生み出すためには具体的に得られた知にこだわらないことが大切である」という言葉に私なりにとても同感します。
 確かに、我々は数十年も生きてくる間に多くの経験から得た知を持っています。その知にこだわり過ぎることは、貴兄がいわれる総合的、直感的な理解の妨げになることもあると思います。
 そして、このことをもう少し拡大して考えると、我々現代人は、今日、あまりにも科学的な知識にこだわり過ぎていないでしょうか。そのことが結果的に、自らの人生に対する「真の知」の感得を困難にしてしまっていると思うからです。実証科学を信奉するあまり、我々は人間としての自由な精神活動を阻まれているように思います。
 科学は、科学的実証によって世界や人間を理解する流儀です。しかし、我々はかけがえのない人生を生きているのです。ひとつの流儀に縛られることはないのではないでしょうか。
 

 私の頭脳はこのような深遠なテーマを考えるには回路不足であるらしく、頭が痛くなりましたので今日はこのくらいで止めたいと思います。
 また、間をおいて貴兄の貴重な文章を自分なりに読学させていただきたいと思います。そして自分のブログに、この文を載せて置き、補足していきたいと思います。どうぞ、御指導をくださいますようお願いします。
 経典など読んだこともない人間が的外れなことを書くことに本当に恐縮しております。どうぞ、失礼の段お許しを願います。
 しかし、私にとってはこの歳にして初めて人生についていつでも気ままに語れる人と出会えたことはこの上ない幸せであります。WEV2.0の時代にようやく間に合ったことを神に感謝しているところです。



【2008/02/12 18:20】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
自分の言葉で哲学しよう!


幼稚と言われてもいい、とにもかくにも、自分の言葉で考えて表現してみよう。人間について、自然について、人生について、毎日一回、素朴な哲学者になって、考えてみよう!

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