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先日、病院の待合室で、最近、46歳で亡くなった池田晶子氏の連載エッセイを週刊誌で読んだ。その中に、「長く病んで、歳の順で逝く父の死からはペットが死んだ時ほどの悲しさを感じなかった」という意味の文章があった。この言葉は自らの経験に照らしてみても真実であろう。また、ちょっと無情な言葉とも思えるが、よく考えると死に行く親にとっては安らぎを得る言葉でもある。
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【2007/03/31 17:29】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
今年の故郷の春山は例年には見られない姿である。白い残雪がほとんど見えず未だ芽吹かない茶色の只の芝(薪)山である。いつもなら今頃は一面の残雪の上に枝を広げている。それでこそ、うれしい「北国の春」というものだ。
それでもよく見るとキブシが黄色の花穂を広げつつある。ヤマモミジが枝先を緑や朱に染めている。除々に、木々も躍動を始めているのだろう。
夕方から晴れ上がった空に二羽のサシバが輪を描いて悠々と飛んでいる。西洋の有名な画家が生まれ変わるなら鷲に、と言ったと言う話を読んだ記憶がある。確かにあの高度から夕日に照らされた下界はさぞ美しかろう。
【2007/03/30 19:38】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
早死にも寂しかろうが、余り長生きして仲間から取り残されるのもいささか寂しいものであろう。
【2007/03/29 19:46】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
孔雀の長い尾も広げて見せなければ、単なる長すぎる尾に過ぎない。
人間も生まれ持った才能を開花させなければ、それはその人間の短所で終わる。とかく人の希なる才能は短所と背中合わせのものが多いからだ。
【2007/03/28 17:13】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
健康こそ意欲の源泉である。
【2007/03/27 19:18】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
朝は、一日の出発の大事な時である。起きたら、顔に剃刀をあて、冷水で口をすすぎ顔を洗い、仏前に参り、体操をしてから、今日の仕事に取りかかりたいものである。
【2007/03/26 09:23】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
鉄は熱いうちに鍛えよ、人間は幼いうちからの躾が肝要である。ひとごとではなく、己自身の生活習慣について、恥ずかしながらこの歳になって痛感することである。
【2007/03/25 16:47】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自己を厳しく律して生きることは、自己を甘やかせて生きるよりは、結果的には自己に無理をかけない生き方である。
【2007/03/24 21:05】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
昔から、イヌは人に、ネコは家につくと言い伝えられてきたが、改築するため家の中の家具を運び出して、家の中が様変わりするにつれて、飼い猫の様子に落ち着きが失われつつある。このことは、家の中の整理を始めた頃から観察された。動物特有の本能で自分の住処に異変がおきていることに気づくのであろうか。
【2007/03/23 20:04】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
二十歳の頃に、エッカーマン著「ゲーテとの対話」〔神保光太郎訳・角川文庫〕を愛読した。その後もおりにふれて時々読んだ。上巻に「75歳にもなると時々死について考えないではいられなくなる。これを想っても私はしごく平安である。われわれの精神は全く滅びるものではないと私は確信している。これは永遠から永遠にわたって働き続けるものだ。・・・」という言葉がある。
この言葉は若い頃とくに印象深い言葉であった。今読んでみてもそれは変わりない。確かに、人間の肉体は死によって諸元素に還るが、精神は共に生きた多数の人の心の中で生き続け、更に次世代の人の精神に受け継がれる。そして、その精神が何世代か後に、世界を動かすほどの働きをすることもあろう。
また、精神といっても哲学とか思想とかということではない。その人間の生き様こそ、精神の華と言えよう。死んでしまえば総てが無に帰すという考えは大いなる誤りであろう。

【2007/03/22 19:10】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
今日も自宅改築に関わる準備。朝から、家具の移動と施工者等との打ち合わせ等々。午後は、山小屋まで荷物の運搬。
故郷は、3月上旬に10㎝まで減った残雪が中旬からの降雪で現在は45㎝の積雪。斜面には3月初旬に開いたスミレの花が寒そうに見られる。〔写真〕

現代の職人任せの普請でさえも準備にこれほど労力がかかるのだから、昔の家普請は如何に大変であったか想像がつく。昔から普請をすると家人が死ぬと言われたことが分かるような気がする。

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【2007/03/21 11:58】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
日頃、自宅近くの石油スタンドに立ち寄った時、備え付けの日経新聞を読むのを楽しみにしている。つい今し方も、「寛容と文明」という題のコラムを興味ぶかく読んできたところだ。「文明は異端者を処刑することで何度か停滞を繰り返してきた」という書き出しだったと記憶する。
要は、社会には様々な考えを持った人々がいるが、お互いに寛容な態度をもって異端者と真摯に議論することによって、新しい社会常識が形成される。そして、さらに時代が進むと、その常識に対する新たな異端者が現れ、その異端者と議論の結果、より高い新しい社会常識が形成される、という意味と自分は読み取った。
自分が読んだコラムの文意がその通りとして、この論理を現代社会に当てはめて考えると、いろいろ考えさせられる。
現代の日本ではお互いの考え方には極めて寛容であるが、真摯な議論が行われてより優れた社会常識が形成されているとは思えない。日本のみならず世界でも同様である。
現代では、科学的常識はめざましく発達しているが、社会的常識は後退しているようにさえ思われるのはなぜであろうか。
その原因を今の自分には、突き詰めて考える力はないが、ともすると、現代は、自分の考えを自信をもって主張する異端者もいばかりか、自分の考えを毅然と保ちながら異端者に立ち向かう人間もいない時代であるのかも知れない。
【2007/03/20 18:54】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
「単純な人間」とか「単純な考え」などと、我々は、とかく単純であることを見下げるが、単純こそ万物本来の性質なのだと思う。季節にせよ、今日という日にせよ、春夏秋冬、朝昼晩と極めて単純である。こうして、世界はすでに何百万年にわたって存続してきたのだ。
今日の新潟日報の科学欄に「暗黒物質」と「暗黒エネルギー」について記載がある。素人の自分には皆目見当さえつかないが、それとて解明してみれば単純な事に違いない。
この世で唯一複雑きわまりないのは人間の心ではなかろうか。
【2007/03/19 18:59】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
今日も終日、家具の移動。
二階の天袋から新卒で栃尾市の山奥の分校に赴任した時のアルバムが出てきた。写真を見ていると46年前のことが昨日のように思い出される。3.4年生11人の子どもの名前を1人残らす即座に言うことが出来た。その子の家の屋号も忘れていなかった。物忘れのはげしいこの頃、不思議なくらいである。
その分校は海抜500近い集落で4月1日に赴任したときに未だ3m近い残雪があった。〔写真〕しかし、それだけに春はすばらしかった。教室の窓から真っ白な八海山が6月まで眺められた。村の南にそびえる倉と呼ばれる山は分校から30分ほどで上れた。子ども達を連れてよく上った。〔写真〕とくに春のころは土日にも子ども達を誘って上った。頂上からの眺望は素晴らしかった。
ある日曜日、朝早くから子ども達を連れて上り、堅くしまった残雪を踏んで尾根つたいに6㎞余も歩いた。途中で弁当を食べたが、自炊をしていた自分は弁当を持参しなかったので子ども達が残したご飯とおかずを集めて総て食べたことを忘れない。
子どもは遙かかなたに見える桃源郷のような美しい景色を目指して歩くのだが到着してみると他愛のない所であって、そこからまた1.2㎞先に美しい景色が眺められる。自分が子ども時代に故郷で経験したことを子ども達と再経験することが、また楽しかった。
夏には集落から種須原〔中越地震で被害を受けた山古志村の一集落〕まで下りて川遊びをした。沢に近い上流からの川伝いにくだり、種須原集落に入ると泳げるほど川幅になる。川のない村に育った子ども達は川で遊ぶことを非常の喜んだ。
当時の思い出を、このまま書いていけば一晩や二晩では終わらないであろう。ともあれ、自分の36年間の勤務の中で、ここの分校の記憶はずば抜けて鮮明である。最初の赴任校が一番印象深いとはよく言われるが、今日、そのことを確認できた。
あの子ども達はどうしていることであろうか。みんな元気であろうか。指折り数えれば、もうすぐ還暦を迎える歳である。
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【2007/03/18 19:49】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
午後から急激に気温が下がる。雪こそ降らないが今冬で最も寒い日かと思うほどである。自宅の書棚の整理をしていると40歳の頃に書いた日記風のノートが出てくる。1978.8.24「愚痴のような断片をノートに書き付ける空しい業のみに自分の人生は費やされて終わりはしまいか」と書かれている。このとき、自分は痔瘻の手術で長岡の病院に入院していた。見舞いに来てくれた人たちの名前も書かれているが、今、全然、記憶にない人も多い。自分が見舞った人のことは忘れないが自分を見舞ってもらった人をすっかり忘れるなどいかにも恥ずかしいことだ。このことから思ったことは、日記はその日の出来事をそのままメモ程度に書いておけばよい。それを時々読み返して見ることで、愚痴のような思考日記よりも余程、人間形成に役立つのではないか。
【2007/03/17 19:02】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
徳川時代の武士の書院を画像で見ると実に質素で無駄がなく自ずと身の引き締まるような雰囲気が感じとられる。それに比べて現代の書斎や居間は様々な物があり雑然とした感じである。
【2007/03/16 20:59】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
いよいよ柏崎の住宅の取り壊しが始まるので、秋に整理処分し、残った蔵書を段ボール詰めて車庫に運んだ。書棚の本を一冊ずつ箱に詰める時に、その本を読んだ頃のことが思い出された。
若い頃は、本を読めば悟りが開け成長を遂げ、今とは見違えるような人間になれるような気がしたものだ。だが、畢竟、いくら本を読んでも、いくら思索を重ねても、やはり自分は自分であるというごく当たり前のことに、この歳になって漸く気づいた。ちょうど、作業中に書斎のエアコンを撤去に来た電気店の店主と、このことを話題にして大笑した。
【2007/03/15 18:43】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
毎日の日常生活の営みの中でふっと湧いてくる思想こそ、己の哲学だと思う。哲学思想に高低はない、自分の思想と借り物の思想があるだけである。
【2007/03/14 20:01】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
悟りは、性格や気質を克服できるものであろうか。
【2007/03/14 14:28】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
昨年暮れから、家の改築にかかわる基本設計等、様々な問題で膨大な時間を費やしている。我が家は、35年前〔1972〕に共稼ぎの夫婦2人が限度額までローンを組み新築した。〔ローンの返済が終わったのは退職寸前であった〕建築現場の若い大工たちが、そのころ流行した森昌子の「せんせい」を歌いながら仕事をしていた光景を昨日のように思い出すことが出来る。
この年になると少々不便でも住み慣れた家で暮らしたいという気持ちもあるが、建てた頃がオイルショックの頃であったため建材にも問題があった。たとえば柱は三寸角である。その後、15年前に1千万円以上かけて改修したが、他の場所に、次々とトラブルが発生し、さらに、中越地震の影響も少なからずあったため、この度改築に踏み切った。
それにしても、しがないサラリーマンが一代に2度にわたって家を建てるということ自体納得がいかないところがある。想えば、今の家を建てた頃は、高度成長の絶頂期で「使い捨ての哲学」が跋扈した時代である。「新築の家の寿命は20年」の非常識が平気でまかり通った時代でもあった。幸い、我が家は、頼んだ頭領は故郷の大工で良心的で腕はよかったせいか意外と長持ちをした方である。
それにしても、日本の建築文化は世界一の木造建築技術を持ちながら、先年の耐震強度偽装問題は論外としても何かが欠けている。それは、かつての日本の建築文化を支えてきた職人魂ではなかろうか。
いや、職人魂は、かつての日本では、職人に限らず、すべての日本人の心の中に確実に息づいていたプライドではなかったか。
【2007/03/13 20:38】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
朝から、乾いた粉雪が強風に舞う大寒の頃のような日である。
先刻、石油スタンドで読んだ昨日の日経新聞〔今日は休刊日〕の読書欄の新刊書〔書名は忘れたが・・・〕の紹介文の中に「社会脳」、「社会知能」という言葉があった。いわば、人間関係において円滑に行動できる能力のことと書かれていたように思う。いわば、いままでのIQに偏った人間知能のとらえ方ではなく多面的な知能のとらえ方を脳科学の見地から展開した理論であろうと想像した。紹介文の詳細は思い出せないが、自分は「なるほど」と納得したというより、以前から思っていたことなので、「我が意を得たり」という気がした。とくに、長い間、子どもの教育に携わった者としては、子どもの能力を教師も親も、あまりにも単純な尺度でとらえているのではないかという疑問を常々感じてきた。未だ十歳にもならない内から「出来る子、出来ない子」というレッテルを貼られるようなことになってはいなかと痛感する場面がしばしばあったからだ。折に触れて同僚にも親にも話したものの、分かってもらえたとは思っていないし、自分自身、突き詰めて考えてみることもなく今日まで来た。もともと、知能指数や学力、偏差値などは、子ども達の健やかな成長を促すための診断テストでしかなかったはずである。こともあろうに品定めの数値となってしまうようなことはあってはならない。
これからの学校教育は、子どもの能力を脳科学の手法で分析的に診断し多面的にとらえて指導の参考にするようになるのであろうか。
【2007/03/12 14:41】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
我々は、誰でも、歳をとり人生も終末に近づくと、自分の一生を振り返る。そのとき、自分は悔いのない生き方をしたという確信ができるならそれに越したことはない。それは、一種の総括のようなもので評価の観点は人それぞれ異なろうが、重大な汚点のない人生を送ることが出来たと確信できる人間は真に幸せな人間である。我が師モンテーニュは「重大な侮辱は受けたことも与えたこともなしに、私はやがて長い一生を終わろうとしている。私は、私の名前の他に、いかなる汚名も悪名も着なかった。誠にたぐいまれなる天寵といわねばならない」と随想録第10章に記している。
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【2007/03/12 09:24】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
先日の新潟日報の読者投稿欄に、老夫婦がペット代わりにしていた人形型のロボットを修理に出したところ、淋しくて仕方ないという投稿があった。よほどよく出来たロボットらしく、こちらの話しかけに対してそれなりの応答をするということだ。
このようなロボット技術はコンピュータの進化とともにいよいよ生きた人間に近づくものであろうが、その技術がめざす究極は生身の人間の脳のメカニズムであろう。だとすると人間は、おのずと自分自身の心や感情をロボット工学的な視点で考えるようになるのではなかろうか。

追記2007.3.12
雑誌「日経サイエンス」のビル・ゲイツ氏の「ホームロボット時代の夜明け」という記事を読んだ。氏によると、確かにロボットは遠くない将来、高齢者を補助したり親しい友として支える役割を果たすであろうとしているが、二足歩行の人間型ではない、「ロボットらしからぬロボット」が主流となるであろう、と文章を結んでいる。
つまり、将来、現在の掃除ロボットのようなマシンのプログラミングを創り、家庭のパソコンに組み込むことが可能となれば、ロボットは生活の広範囲にわたり普及し人の暮らしに大きなインパクトをあたえるであろう、としている。


【2007/03/11 17:19】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
とかく、人間には何事においてもとことん追求しないと気が済まないという傾向がある。言うまでもなくこれが人類の進化をもたらしたことは事実だが、哲学者ではない我々は、日常の暮らしの折々に会得する哲学的な思想を大切にして生きていけばそれでよい。何も無理をして思考をすることはないだろう。重要なことは、会得した生活の知恵をいかに身につけるかだ。
【2007/03/10 07:09】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
午後、村の高台から日に照らされた雪山にしばらく見とれていた。絵画というものに対する鑑賞眼を身につけていない自分には、生の自然から受ける感動はそのスケールからして風景画の比ではないと信じている。ただ、自然の見せる景観は移ろいやすくはかない。そこで、その美しさをカンバスに表現して、いつでもその美しさに触れることができる風景画が生まれたのであろうか。乱暴なる絵画論ではあろうが・・・。20070309.jpg

【2007/03/09 19:43】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
限られた年月にまとまった仕事をしようと思うなら、それなりの日常の工夫が必要だ。入らざる付き合いをしていると一日の大半の時間を奪われてしまう。それが生業であれば致し方がないが、そうでない雑用は極力排除することが肝要だ。
【2007/03/09 14:31】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
昨日から降雪となり我が故郷は80㎝の積雪となった。明日中には1mを越えるであろう。ゆめゆめ、自然をあなどってはならない。昨年もマンサクがすでに開花しはじめた3月12日から14日にかけて1mの降雪があった。今年は残雪が昨年の十分の一だったため誰もその事実を思い出そうともしない。多くの人がスノータイヤを外し、冬囲いを外した。
まさに、「油断」というものはこのことであろう。
【2007/03/08 19:01】 | 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0)
歳をとると仕事に集中するのはよいが、熱中するのはどうもよくないようだ。何故かというと、熱中するとどうしても無理をしてしまうからだ。
頸椎に故障のある自分には、同じ姿勢での長時間の仕事はよくないのだが、パソコン作業など、あっという間に数時間が過ぎてしまう。
【2007/03/07 05:25】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
ブログとは楽しいものである。
このような山奥に暮らしていても色々な考えを持った人と出会い、その人の考え方を知り自分の考えも聞いてもらうこともできる。
今、愛読しているブログの一つに、哲学の未来について現代の脳科学の視点から独特な考え方を開陳したものがある。私には理解が及ばない所もあるが面白い。今日も、失礼ながら、頭の体操のつもりで次のような投稿をした。

いつもながら興味深く拝読しております。
確かに人間の「心」とか「幸福」などと呼ばれるものは、目の前の地上に石ころが存在すると同様な存在の仕方では存在しないと言っていいでしょう。しかし、あなたが言われる、存在、認識、思考、欲望、意思、意識などが存在しないとしたら、人類の文化は生まれず、地上の石も「昆虫にとっての石の存在の在り方」を越える事はなかったと思います。だが、思考や認識の能力を駆使して人間は、科学的にその物質を分析して「石」というものの科学的な概念を得ることができたのです。
のみならず、人間は、その石を単なる物質としての石と認識するに留まらず、たとえば庭石としての石には精神的な存在として対峙する能力〔感性〕も身につけてきました。
あなたが「錯覚」と名付けられたものを排除した物質の認識というものは、人間という基本的なベースを度外視したいわば「機械の眼〔認識〕」に過ぎないことになるのではないでしょうか。
私は、その「機械の眼の認識」さえも絶対的なものではないと思います。人類の科学というものはヒト流の科学であり、他の惑星の高等生物は全く違った流儀で科学を発展させているかも知れません。いずれにせよ、我々ヒトが、いかなる時代になろうとも、この世のすべてを解明できるなどという不遜なる考えはもつべきではないことは確かなことだと信じます。
また、楽しみにして読ましてもらいます。
【2007/03/06 13:54】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
3月1日に郷土の集落の公民館で明治の古文書を調べたおりに、和紙の文書を広げると沢山のヤマトシミが出できた。郷里では「キラ」と呼んで、衣服や書物の害虫として知られていた。子どもの頃から目にはしているが、小さい上に敏捷であるためじっくりと観察したことはなかった。この度は郷里の昆虫を調べている折りであるから、その気になって観察した。今まで自分の頭にあった形は蛾のようなものだったが、実際の形は魚に似ている。銀色の錦鯉を連想してしまう。調べてみると漢字名が「紙魚」あるいは「衣魚」であるということが分かりなるほどと思った。さらに調べると英名はsilver fish「銀色の魚」であるという。
このような新しい発見は、植物などにもしばしばあるが、目が開かれたという感じでうれしいものだ。
yamatosimi

【2007/03/05 17:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
自分の言葉で哲学しよう!


幼稚と言われてもいい、とにもかくにも、自分の言葉で考えて表現してみよう。人間について、自然について、人生について、毎日一回、素朴な哲学者になって、考えてみよう!

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