スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告
いよいよ今年も暮れようとしている。幸いなことに、我が故郷は60㎝ほどの積雪で、今日は日射しもある穏やかな晦日となった。
子どもの頃は、月遅れの正月であったので4mを越す雪の中での年取りも珍しくなかった。「年取り膳」のご馳走は、塩鮭の切り身、昆布巻き、ゼンマイの煮染め、ノッペ、卵焼き、煮豆、キンピラゴボウなどのおかずに、兎の肉の吸い物、それに真っ白なご飯であった。当時の子どもにとっては、一年中で一回きりの大馳走であった。
この日は年取り膳につく前に家族全員が仏壇にお参りをした。うす暗い広い仏間に座って、家長が読む経、「白骨の御文」の終わりを寒さに震えながら待ったものだ。
不思議なことに、今になっても自分には当時の年取りのご馳走が今まで食べたもので最高であったように思われる。例年どおり今年も、家内は面倒だと苦情を言うが、大晦日の献立はできるだけ当時と同じものにした。
これから御膳につくところだ。まずは、仏壇の前で「白骨の御文」を読み上げよう。
〔http://www.geocities.jp/kounit/「年中行事→トシトリ、正月 参照〕
スポンサーサイト
【2006/12/31 16:52】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
明日は未だ無、昨日はすでに影のようなもの、では今日は。それは未来と過去の狭間、そしてこの今日という狭間の「今」だけがお前が頼みにできるもの。この「今」を制する者こそがすべてを制する者である。20061230.jpg

【2006/12/30 15:48】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
昨夜から冬型が強まりこの時期に相応しい寒気が来て雪降りとなった。積雪は明朝には70㎝に達するだろう。新春間近とはいえ、春夏秋の8ヶ月間よりも長く感じられる豪雪地の故郷の冬は始まったばかりである。
「歳をとると共に時のたつのが早くなる」などと言われるがそういうこともあるまい。なぜなら、肉体的苦痛に悩まされて過ごす1時間は、仕事や遊びに熱中する1時間より長く感じることは確かである。とすると、肉体の壮健な若い頃より、あちこち肉体的な苦痛を感じる老年期のほうの一年が長く感じるはずであるからだ。となると、我々のような老年期に達していながら、一年を短く感じることは恵まれた境遇にあることの証拠であり、大いに感謝しなければなるまい。
そのうえ、生物としても人間としても他の多くのものに支えられて生かされていることを知った今、常に感謝の気持ちを感じながら生きることができるならこれ以上の生き方はあるまい。
【2006/12/29 19:50】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
人生は哲学の教材に充ち満ちている。読書は、そのほんの一つに過ぎない。
【2006/12/28 13:15】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
ごく当たり前の考えであっても、よりよく生きようという意欲のもとに、自分で考えたことは立派な哲学である。また、どんなに高度な思想でも、よりよく生きようという意欲に基づかない思考は哲学と呼ぶに値しない。言うまでもないことだが、受け売りの思想など論外である。
【2006/12/28 13:05】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
他人の事までどうこう言うつもりはないが、今の自分に一番大切なことは、生きていることに対する感謝の気持ちを常に自覚することだ。
【2006/12/27 09:12】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
蔵書の整理で残ったものの一つに新書版の二葉亭四迷全集がある。二十歳の頃に買ったものだ。表紙は布張りであるが紙は周りから既に酸化して茶色に変色している。そして、全巻が夏目漱石全集の「それから」のケースに入っている。元々、ケースはない装丁であったが、販売元の岩波書店に頼んでケースに入れてもらったのだった。本屋などない山奥のことだから代金は郵便振り替えで送金したのだが、その振替用紙の通信欄にその旨の依頼文を書いて送ったのであった。これに類した依頼は何度かしたが、岩波書店はいつもそれに応えてくれた。今にして想うとよく承知してくれたと思うものもある。
村の郵便局で代金を振り込むとおおよそ2週間で本は郵送されてきた。あれこれ、本の内容を想像しながら配達の日を待つのも楽しみなものであった。小包を開くとパラフィン紙のカバーで覆われた岩波文庫が現れる瞬間の感動は今でも思い起こすことができる。届いた本は、読み上げてしまうことが惜しく、残りのページを確かめながら読んだことも覚えている。
今は、自宅の近くに大きな書店があり沢山の本が並んでいる。たまには読みたいと思う本を買うが、当時の感動のかけらもない。並んでいる本も当時の本に比べて軽いものが多い。この自分も何かと重いものを敬遠する世相の風に染まってしまった人間の一人であるが・・・・・。
20061226.jpg

【2006/12/26 15:13】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
今日は朝から夕方まで日本晴れだった。こんな日は新潟の冬には3日とない。だというのに自分はのっぴきならぬ所用があり街の自宅に戻っている。山小屋にいれば、今日こそブナ林で念願のヒラタケの写真を撮れただろうに。残念だ。
午後、庭に出ると夕日の中で猫がひなたぼっこをしている。猫の姿をみるにつけ、感じることは、四足行の獣の歩く姿の安定していることだ。とくに私はネコ科の動物の歩き方を見るとそれを感じる。大型種のトラややライオンなどの歩き方の何と堂々としていることか。身体の重心がしっかり見て取れる歩き方だ。
それに比べ人間や鳥の二足行はひょこひょこした歩き方で重心が定まらない。人間は四つ足などと四足行の動物を馬鹿にするが、彼らの方が歩き方は遙かに美しい。とはいえ、今更、人間が四つ足歩行をするわけにも行かない。せめて歩くときの気構えだけでもトラやライオンを見習いたいものだ。
【2006/12/25 16:58】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
アランは人間の心的不安に対する体操の効果をしばしば述べているが、確かに体を動かしたり、深呼吸をしたりすることで人の精神状態を改良することができる。座禅も、正しい姿勢と呼吸によって心の安定を得るためのものであろう。ヨガというものは全く知らないので広辞苑で調べると「古代から伝わるインドの宗教的実践の方法。精神を統一し、物質の束縛から解脱をはかる。またその際、身体的修練を重んじ、現在では健康法の一としても行われる。」とある。「身体的修練を重んじ」という言葉から、やはり体操や呼吸と深い関連がある。そうであるとすると、我々は、ただ読書することでは悟りの境地には到達できない。本を読むときには是非、姿勢を正して腹から声を出して音読するに限るということになろうか。そういえば、確かにお寺の修行僧はそのようにして教典を読んでいる。
【2006/12/24 20:02】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
冬型が強まり、雪こそ降らないが寒い朝だ。朝食後、民放テレビで、映画「ダーウィンの悪夢」の一部を観た。そして今、この映画についてのブログを調べると優れたコメントがいくつかあった。その一つのブログに、次のような感想を投稿した。
「今、テレビでこの映画について知ったところです。世界有数の豊かなビクトリア湖の生態系が失われることも残念でありすますが、そこで暮らす一般の人々の暮らしへの影響には特に心が痛みます。こうした生活の格差は昔からどこの国にもあったことは事実でありますが、グローバルな今日ではその意味が大いに異なるものと思います。人類が誇る文化なるものの真価が今こそ試される時ではないでしょうか。経済は「生き物」などと無責任のことをいわず、経済学者も哲学者も、われわれ一人一人が今、真剣に考え取り組むべき世界的なテーマの一つが南北問題だと思います。自由主義経済・市場経済が現代では主流でありますが、このままでは世界はいよいよ非人間的な方向へ突っ走っていくでしょう。テロもそこに主な発生源があると言えます。テロリストは断じて許される者ではありません。しかし、彼らの犯行の動機となるものにももっと我々は注目すべきだと思います。南北問題も立場を変えて考えてみれば世界一贅沢な食生活をしている日本人にも彼らの思いは理解できるはずです。世界中にWEV2.0のネットが張り巡らされた今日、今までにはできなかった草の根運動的な経済や哲学のルネッサンスも可能ではないでしょうか。」
【2006/12/23 10:35】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
蔵書の内、どうしてもゴミとして処分できない文庫本の一冊の、1章を今読んだところだ。新潮文庫のモロワ〔内藤濯訳〕の「私の生活技術」だ。昭和31年11月20日発行とあるから、自分が高校生のころに読んだ本だ。今日、読んだのは最後の章「年をとる技術」だ。「老年とは、白髪とか顔の皺とかいうものよりはむしろ、もう立ち後れだとか、勝負が済んだとか、舞台が次に移ったとか言う感情である。〔略〕つまり、立派に年をとるには二つの方法がある。第一は働くことによって老衰から救われる方法が、すなわちそれである。」と述べ、ゲーテのファウストの最後の独白をあげている。「俺はこの考えに一身を献げる。来る日も来る日も、人と家畜を征服しうる人間だけが、自由と生活とに値する。・・・自由な土地の上で、自由な民に取り巻かれながら、自由に活動することのできないわけがどこにあろう。今こそ俺は、この刹那に向かって<待ってくれ、おまえは実に美しい・・・>とは言えないものか。こんなにも大きな幸福を予感しながら、俺は今、何とも口では言えないひとときを味わっている」。恋にも快楽にも野心にも裏切られたファウストを救ったのは、泥沼を埋め立てて人と家畜を住まわせようと骨を折る仕事、働くことであったというのだ。また、別の章「働く技術」でモロワは「生きる技術とは、一つの攻撃目標を選び、そこに力を集中することにある。」とも述べている。
【2006/12/22 20:30】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
七十年も生きれば人生の指針となる哲学的な知識は誰でも相当なものを持っているものだ。だが、それが、自分の生き方を実際に高めていないなら、それはガラクタ同然である。いや、それを口先だけで得々と他人に説くとなるとガラクタ以下である。
【2006/12/21 17:33】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
郷土の動植物のHP作りで夕べは鳥のノスリをアップした。ノスリは美しい鳥である。幅の広い翼と扇状のきりっとした尾、白色を帯びた羽裏、青空を飛翔する様は見事である。鷹鷲類の中で私が一番好む鳥だ。だが、昔からこの鳥を「馬糞タカ」「くそっタカ」と呼んだのは心外で悔しいことに思われる。由来は、「ウマエゴ」つまり馬屋の敷き藁を刈草などと積んだところによく飛来して小高いところからネズミやモグラなどねらっていたためであろう。人間はそれを見てこう命名したのにちがいない。自分たちの農作物に被害を与える害獣を捕獲して駆除してくれるこの鳥の営みも見抜けず、ただとまっている場所を見てその鳥の品格を決めてしまうなど、人間のやりそうなことではないか。20061219.jpg

【2006/12/20 05:52】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
我が師モンテーニュは「人生のパッセンジャーになってはならい」と説いている。特に、我々老人は、残り少ないかけがえのない日々を、「しっかりと見て、しっかりと聞いて、しっかりと話して、しっかりと味わって」生きようではないか。そうだ、もう一つ「しっかりと耐える」ということも忘れてはなるまい。
【2006/12/19 17:29】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
私は「初めに言葉あり」という言葉の意味を「初めに関係あり」そして「言葉による対話あり」であると信じて来た。それは今も変わらない。ヒトが猿人から人間となったのは、大いなる存在との関係の中に立ち、相手〔汝〕に働きかけをした時からである。その働きかけは「祈り」であったか「呼びかけ」であったか分からないが、確かなことは自分の心のすべてを傾けた働きかけであったことだ。我々人間はそのとき初めて「ヒト」から「人間」になったのだと思う。以来、我々は人間として多くの関係の中に生きてきたが、そこでの働きかけは自分の欲得にもとづいたものばかりなってしまった。信仰というものは、この皮相な関係の中にある我々を根源的な関係、つまり大いなる汝との関係の世界に引き戻す、時代と人間の能力を超えた知恵ではなかろうか。
【2006/12/18 15:15】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
今日も終日雨。幸い気温はそれほど下がらず今夜は雪にはなるまい。山小屋の二階にいても部屋の中が日中から薄暗く夕方のようだ。日本海側とくに北陸の冬は陰気である。それも我が故郷のように谷間の村は尚更である。人の気分は日射しの下と暗雲の下では大分異なる。こういう日には部屋の照明をできるだけ明るくして仕事をするのもよいが、自分は薄暗い部屋の窓際で本を読むのも好きだ。昔、青年のころ、真冬の停電の中でロウソクをつけてシックスピアのマクベスを呼んだときに異様な迫力を感じたことがあった。暗い部屋の窓辺の読書もそれに似たものがあるのかも知れない。今、伝道の書を読んでいる。「しかし、時と災難はすべての人に臨む。人はその時を知らない。魚が災いの網にかかり、鳥が罠にかかるように、人の子らも災いの時が突然彼らに臨むとき、それにかかるのである。」「人は多くの年、生きながらえ、そのすべてにおいて自分を楽しませても、暗い日の多くあることを忘れてはならない。すべて来たらんとすることは皆空である。」聖書は偉大なる書物である。キリスト教には誰にも読めるこのような聖典があるが、仏教には、これに匹敵するものがない。
【2006/12/17 15:18】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
午前は晴れとの予報であったが終日冷たい雨となりそうだ。気温はそれほど低くないので暖炉に火をとろとろと燃して午後から本を読んでいる。鈴木大拙集第10巻の「妙好人」。以前に一二度目を通した。以来、心のどこかに惹かれる気持ちがいつもあったように思う。百ページほどの文であるが一気に読んだ。「森ひな」という妙好人の言葉につぎのようなものがある。「あみだにょらいと、つきひをおくる。いつの、なんどき、ひがくれようと。ああありがたい、なむあみだぶつ。」さらに、この文で中心的に取り上げられている妙好人「才市」の言葉には「しゃばも浄土もみなひとつ、十方微塵世界も、わしがもの、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。さいちがごくらく、どこにある。こころにみちて、みにみちて、なむあみだぶつが、わしのごくらく」。このような眩しいような言葉の前には禅学者の解説文もいささか色あせてものに感じられる。宗教理論などは、いはば、真の信仰への橋をつくるための仮小屋のようなもので、如何に立派な仮小屋を建てようが、橋を造って渡らないことにはどうにもならないのではないか。
【2006/12/16 14:51】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
若い頃は、老人の緩慢な動作を見ているとじれったく哀れな感じさえしたものである。だが、自分が老人になってみると、緩慢な動作は単に肉体的な衰えの結果ではない事が分かる。いや、緩やかな動作は老若にかかわらず進んで身につけたい好ましい習慣であると思う。なぜなら、緩慢な動作は仕事の精度を高め結果的に能率も上げる。のみならず、精神的にも安定をもたらす。とくに我々老人は、この世に急いでやることなど何一つない事を知ったのだから、何事も一呼吸をおいてゆるやかな動作で行うことをしっかりと身につけようではないか。
【2006/12/15 17:07】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(3)
今日、隣村の家で民具の写真を撮るために土蔵に入ったら一束の古文書があった。ゴミ同然にほったらかされいたものだ。こんなことは時々出会うことだが、庄屋でもない限り大した文書はなく借用証文や受領書などが主である。それでも、いつものことながら、薄暗い土蔵の窓際で一枚一枚めくって見るのが自分は好きだ。寒さも忘れるほど夢中になる。
周りには長持ちや膳箱、漆塗りのタンスなどがある。天井から角樽が下がっている。古い糸車もある。こんな場所で読むと型通りの借用証文でも伝わってくるものが違うように思う。天保3年の借用証文には自分の先祖らしき請け人の名前も見られた。なにか、胸が熱くなるような気がした。
【2006/12/14 17:48】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
「一日一生」という言葉はあるかどうか分からないが、一日をそれきりのかけがえのないもの〔一生〕と心得て生きる心構えは大切なものと思う。若いうちは言葉面は分かっても実感として理解できなかったが、老境に至った今、この言葉の重みを否応なく痛感する。
【2006/12/13 14:04】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
今日は、HP「故郷の昔の暮らし」の聞き取りで、村の木挽き職人を訪ね、昔の木挽きの話を聞いてきた。仕事順序は、まず、木を伐採する。そして枝を落とし、幹を長さ6尺2寸に輪切りにする。輪切りにした丸太を地上に横たえた状態で鋸の歯を地上と平行に入れて縦割りに挽く。この作業は腰を下ろした状態ですることになる。そして、二つに分けた切り口半円のものを、ハの字の支柱で斜め30度ほどに立てて縦挽きをして板にする。その時、一枚一枚その都度切り離すことはせずに元の部分は最後に切り離した。勿論、挽くときには何れの場合も四面に墨を入れて行う。しかし、あれだけ幅の広い鋸を使っても途中で曲がりたがるので、その時には鋸の歯を目立てして調整したものだという。つまり、「目立て」は鋸の切れを良くするばかりではなく、歯の進む方向の微妙な修正、調整のために行った。そこにも職人の手腕が問われたものであるという。大きなものでは直径1mもの木を挽いたこともあったという。また、非常に重労働であったため、木挽き職人は昼飯にワッパ〔メンツ〕の実と蓋の両方に飯をつめて合わせた弁当を持って山に入った。このやり方でワッパにつめると大体一升の米で炊いた御飯がほとんど入ったものだという。信じがたいほどの話であるが、それほど木挽きは重労働であったということであろう。〔写真 木挽き鋸一式〕20061211.jpg

【2006/12/12 20:04】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
若い頃は、年をとるにつれ悟りを重ね人間の精神は成長していく、という期待をもっていたように思う。だが、実際、歳をとってみると少しも成長しないのみか肉体と同様、精神にも衰えを感じる。
【2006/12/11 17:32】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
昨夕、テレビで「日本のこれから、ネット社会の安全・どう守りますか」を興味深く観た。テーマがそれであるから仕方がないが、ネット社会の陰の面ばかりを取り上げた番組であった。村の友人と観たがインターネットをしない彼は「インターネットはおっかねぇもんだのう」との感想であった。自分はインターネットの輝かしい可能性を力説したが彼の印象を覆すことは出来なかったようだ。番組のテーマを絞ることは必要であるが、短時間でも前段で、インターネットの優れた可能性についても触れてほしかった。また、その方が昨夕のテーマについての討論をより深めたのではなかろうか。
【2006/12/10 19:12】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
安定した呼吸を保持することが、過剰な印象や想像力から冷静なる判断力を守るための鍵となる。このための修行は、座禅よりも動禅、つまり、日常茶飯事の中で安定した呼吸を意識して身につける努力をすることである。。
【2006/12/09 07:10】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
数日前の初雪は40㎝ほどの積雪となったが、昨日今日の暖気で20㎝ほどに減っている。今日は久しぶりにブナ林に入りヒラタケの写真を撮ろうと歩いてみたが足下も良くなく、ヒラタケには出会うことは出来なかった。しかし、山の上から眺めた我が故郷はちょうど春霞に覆われたような幽玄な趣があった。自然の見せる姿の何と豊かなことであることか。2006.12.10.jpg

【2006/12/08 17:18】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
先刻、民放のテレビニュースで、住宅街で猫が高い松の木に上って下りられないのではないかと、近くの住民が心配し消防署員まで出動したこと報じていた。マイクを向けられた女の人が「まあ、かわいそうに、電工さんが仕事をするときに使う重機で助けられないものかねぇ・・」などと述べている。だんだん大騒ぎになり、ついに、消防署員は網を木の回りに張ることになったらしい。
猫の方は、とまどった様子だ。下りられないのは、能力がないのではなく人が集まって騒ぎになっているためである。現場から伝える女子アナウンサーも「猫は必死に下りようとしていますが、少し下りては止まってしまいます。寒さのため猫は鼻提灯を出して・・・」などと、まさに事態は急迫して一大事という様子である。
昔は、農村ではどこの家にも鼠退治のために猫が飼われていたものだが、当時は放し飼いされていた犬に追いかけられると高い木のてっぺんまで上ったものだ。そして、手間取るが必ず下りたものである。そんな、光景を子どもの頃から見ている自分には、このニュースには素直に動物愛護の心の表れとは受け取れないものがある。
【2006/12/07 20:03】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
極楽浄土で安らかに暮らせるのは死んだ人間の魂である。この横着な生身の我々は、極楽浄土であれ、天国であれ、安らかに暮らすことなどできないだろう。
【2006/12/06 22:10】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
今日の午後、今年の春から撮影したHP「故郷のキノコ」の写真で自分で同定出来ないものが100種近くあったので、キノコに詳しい知人を招いて指導を受けた。既にHP上にアップした25種の内に2種間違いがあった。私はキノコには、もともと興味がなく全くの門外漢であったので、図鑑で調べるには限界があった。それでも、「まず間違いはない」と思ったものだけアップしたつもりだが誤りがあった。
HPはを作ることは楽しいことであり、利用するにも便利なものであるがこうした不確実はつきもであるのかも知れない。〔出版社を通した本である場合は前もって内容の吟味がされるのだが・・・〕しかし、ブログのWEV2.0の世界では、その気があれば、見た者がその誤りを指摘できる、そこが一方通行のHPとは異なる。ブログの世界は、未だ、始まったばかりの世界であるが、良くも悪くも、何か大いなる可能性に満ちた世界である。たとえば、環境保全の課題などでは、信頼できるネットさえ出来れば全国のデータを容易に集約できるのではないか。その他民俗学的な調査等でも同様である。〔写真ツキヨタケの幼菌〕
20061205.jpg

【2006/12/05 19:33】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
「人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の廻りに大きい圏を晝いて、震慄しながら歩いている。その圏が漸く小さくなって、とうとう疲れた腕を死の項に投げ掛けて、死と目と目とを見合わす。そして死の目の中に平和を見いだすのだ」森鴎外の「妄想」の一節である。後文は「死を恐れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下っていく」と結んでいる。先ほどから、本の整理をしていて鴎外のこの自伝的な短編の一節に手を獲られてしまった。この短編は好きで若い頃から何度か繰り返して読んだ。そして、いくつの文節が印象として今も記憶に残っている。だが、この部分の記憶はない。しかるに今、この文章に特別興味を持ったのは歳のせいであろう。いわば、かつて読んだときには「死を遠く望み見て」の時代であった。今は、「圏を晝いて戦慄しながら歩いている」時代で、その圏も大分小さくなってきているのだろう。
このことは、その世代でなければ読み取れないものがある、という読書の興味ある一面である。このことは以前、漱石の「思い出すことなど」を読み返した時にも感じたことである。
先日、私のブログの蔵書の処分についての文に、「どのように考えれば蔵書を捨てることができるのですか。・・・私は捨てられません」というコメントを頂いた。この場でお答えするなら「蔵書は死ぬまで持っていた方が良い」ということになろうか。ただ私の場合は「HP故郷の昔の暮らしhttp://www.geocities.jp/kounit/」という終わりのない仕事があるため、読書の時間は諦めなければならないという事情があるだけのことである。
それにしても、鴎外の「妄想」を十数年ぶりに読み返して、気づいたことがもう一つある。それは、この短編が鴎外の翻訳作品の「冬の王」に通じるものを持っているということだ。おそらく、この作品を書くときの鴎外の念頭には「冬の王」があったに違いない。
【2006/12/04 14:54】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
哲学のブログを観ていると詩的な表現で書かれた文章が多い。あるいは、詩的な表現が哲学には適しているものかも知れない。
【2006/12/03 21:17】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自分の言葉で哲学しよう!


幼稚と言われてもいい、とにもかくにも、自分の言葉で考えて表現してみよう。人間について、自然について、人生について、毎日一回、素朴な哲学者になって、考えてみよう!

プロフィール

SimoYokote

Author:SimoYokote
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。