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冬型の気圧配置が続きいよいよ新潟の陰鬱な季節が始まった。今日も朝から、霰混じりの冷たい雨が続いている。感性の発達したヒトの気分は少なからずその日の天気の影響を受けやすい。こんな日は薪ストーブをがんがんと焚いて仕事に熱中するに限るが、視力もおとろえ根気も続かない。つい、ぼんやりとしていると訳もなく心がふさいでしまう。そんな時は、薪をとりに真っ暗な地下室に入ってしばらくしてから出てくると暗かった居間が驚くほどに明るく感じる。これも我が山小屋生活の気分転換法の一つである。
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【2006/11/30 14:54】 | 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0)
「充実した今を生きる」などという言葉は小学生でも使う。それを聞くと人は誰でも「同感だ」と思ったり「なるほど」と感心したりするだろう。だが、その人が「充実した今を生きる」をどのような生き方と受け止めた〔自分の問題として自覚する〕かは人それぞれ異なることだろう。いや、一人の人間のうちでも、受け止める言葉の意味は年齢や環境で異なったものとなる。自分は最近「充実した今」を今までとは全く異なったものとして受け止めるようになった。しかし、別に受け止め方が進歩したというわけではない、いうなれば、現在の肉体と能力の環境に適応した受け止め方に変わったとでも言おうか。
【2006/11/29 22:05】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
晩秋になると、濁った池の水が澄んできて水底の魚がはっきりと見えてくるように、人の心も歳とともに澄んで、心底にある、大いなる汝に対する信ずる心と感謝する心が次第に見えてくるように思われる。
【2006/11/29 09:52】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
歳とともに月日のたつのが速く感じられるようになった。5年前を振り返り、5年後を想像すると戦慄を覚えずにはいられない。意気も弱まり、体も不調な所が多い。5年前の馬力は最早ない。HP「故郷の昔の暮らしの記録」http://www.geocities.jp/kounit/の定年後のライフワークは果たして納得のいく程度まで完成できるか。
若者には若者の、年寄りには年寄りの仕事のやり方があろうに、少し調子がよいとやり過ぎて無理がたたる。回復まで若い頃の何倍もかかる。これからは、歳相応の仕事の上手なやり方のコツを身につけて急がず休まずやっていくしかない。
【2006/11/28 15:14】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
私は今住んでいる山小屋の位置を自分は十分把握しているつもりでいる。すぐ前に城山の絶壁があり、後方北側にはブナ林に包まれた二つの集落がある。その先には黒姫山がそびえている等々、山小屋の位置と周囲の状況をすべて知り尽くしているつもりでいる。それなのに、それを一望のもとに眺めると意外な感じを受けるのは何故であろうか。「やはり理解していたとおり」と思うよりも、「おや、こんな位置にあったのか」という思いの方が断然強い。このようなことは、山小屋の位置ばかりではなく、そこに住む己自身についても大いにあり得ることであろう。自分のことは知り尽くしているなどと安易に思ってはならない、ということになる。20061127b.jpg

【2006/11/27 12:07】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自分の安穏な人生を自慢に思うことほど愚かなことはない。それは、神様が未だ厳しい試練に耐え抜くだけの力のない者と思し召した結果であると思うのが人間に相応しい考え方だ。
【2006/11/27 11:45】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
子どもは親の歳に至らないと親の気持ちは分からないが、子どもの気持ちは親には分かった。だが、現代では子どもの育つ環境が自分の子ども時代とは激変したため、親が子どもの気持ちをくみ取れない面が多いのではなかろうか。
【2006/11/26 16:51】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
「哲学をしよう」と言うと、すべては既に考えられたことだという人がある。だが、自分の言葉で自ら考えて、初めて哲学である。我々は哲学者を目指して哲学するのではない。よく生きるために哲学するのである。難しい言葉も要らない、小学校4年生くらいの子どもも分かる言葉が最も適しているだろう。
【2006/11/26 07:50】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
新潟の初冬にしてはなんと晴天の多いことか。今日も朝から快晴だ。冬囲いも終わった。今日は暖かい野外で読書をしよう。直射日光の下で読書をするのは目に悪いと言われたが、私は若い頃から好んでしてきた。
ところで、私には、直射日光の下で読むに耐えうる本は非常に少ないように思われる。その数少ない本としてあげられるのが「聖書」と「モンティーニュの随想録」だ。大抵の本〔哲学的な著書〕は、貧弱でつまらないものに思われ読む気になれない。根拠のない馬鹿馬鹿しいことかも知れないが、今も自分は「白日の下にさらしてその本〔思想〕の真価を問う」という迷信のようなものを持ち続けている。
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【2006/11/25 09:43】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
「死んだ」・「亡くなった」という言葉を好きな者もいないであろうが、「死ぬ」という言葉からは生物学的な死を感じ、「亡くなった」は「無に帰した」という感じがして、少し違和感がある。では、どう表現するかと言われれば、「行く」ないしは現在もよく用いられている「逝く」が気持ちの上では適切だと思われる。「母は死んだ」「母は亡くなった」より、「母は逝〔行〕った」の方が精神の世界では違和感がないように思うが・・・。
【2006/11/24 13:47】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(3)
書棚からアラン著作集の「人間論」をとりだしてストーブの側で読んでいる。今読んでいるページの欄外に1976.11.18と色鉛筆で記されている。アランは自分が今日まで機会ある毎に読み続けた哲学者である。人生、人間について、天才的な比喩を駆使してこれほど分かりやすく説いた人は他にいないだろう。いま、読んでいる「デカルト的な時期」では、太古の人類が火をもって北上し衣服を着て家を建て炉端で思考を始めて遂に全地球を征服したと説く。そして、「思考にはある程度の寒さが適し、人間が自分の発明の糸を再び見いだすのは、炉端においてである」と述べ、「わが国の厳しい春、このデカルト的な時期を活用しようではないか」」〔原亨吉訳〕と締めくくっている。
我が故郷も厳しい冬、デカルト的な時期を迎えている。幼稚でもいい、自分の言葉で哲学しよう。
【2006/11/23 20:13】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
鈴木大拙の「金剛経の禅」の4章に「三世心不可得」と題する文がある。これは、金剛経の第18節「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」について述べられた文章で、哲学の根本的な課題である時間について禅の見地から述べたものである。私には難解な文章であるが、20余年前から眺め続けた文章だ。過去心不可得、未来心不可得は当然と思うし現在心不可得も分からないでもない。だが、その先の過去、現在、未来に囚われない所に立つことが「絶対の現在」を生きることだ、というこの文の核心が釈然としない。いや、釈然としたと思うこともあったが、やっぱりよく分からない。
今のところ、私は、「時間を超越して時間に囚われない現在」とは、その時々の日常の行為に心を集中し成り切ることではないかと思っている。日常の行為に成り切るということは一瞬一瞬の積み重ねで初めて実現する。一瞬一瞬は選択と決断の連続である。そして、この選択と決断の舞台である「今」を生き切ることこそ「絶対の現在」を生きることであると思っている。
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【2006/11/22 16:59】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
歳をとってからよりよい生き方を悟ったとて、今さら、日常の習慣を変えようにも至難の業である。考えてみれば、幼児期の躾というものは大きな意味を持つものだ。
【2006/11/22 13:36】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)

11月下旬にしては気温が高い日が続いている。今日は、村の道端でキチョウが飛んでいるのを見かけた。成虫で越冬するチョウであるが・・。また、山小屋の壁に立てかけて置いた落とし板の間で越冬に入ったキチョウも見かけた。カメラを1㎝まで近づけても動かない。その板をはめる時に激しい振動が伝わったはずだが落ちることなくハネを閉じたまま。まるで足を板に糊付けしたようだ。〔下写真〕20061121.jpg

【2006/11/21 17:33】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
薪ストーブが燃える音と慢性の耳鳴りの向こうで微かに雨だれの落ちる音が聞こえる。今日も暮れた。静かな夜だ。ふと、道元の「正法眼蔵」の「行持」にある言葉が浮かんだ。「一生百歳のうちの一日はひと度失わん再び得ることなからん」「古聖先賢は日月を惜しむこと眼晴よりも惜しむ国土よりも惜しむ」「遅々花日も明窓に坐して忘るることなかれ。蕭々た雨夜も白屋に坐して忘るることなかれ」。
正法眼蔵は時々読んでみるが私には歯が立たない。読み取るだけの心眼が未だないのだろう。
【2006/11/20 20:25】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自分が知らないということを、如何に自分は知っていないことだろうか。
【2006/11/20 19:20】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
いうまでもなく、動作と心は連結している。ゆっくりとしたリズムを保った動作はゆったりとした心と、泰然自若とした心は着実なる行為と連結する。歳をとり、若いときのように敏捷に動作することが出来なくなった今は、一層に努めて、ゆっくりとした動作を身につけて悠々たる心境で終わりを迎えたいものだ。
【2006/11/19 07:08】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
黄昏時になると、昼間見つめることの出来なかった太陽も見つめることが出来るようになる。夜のとばりに包まれる前のほんのつか間・・・。
【2006/11/18 20:17】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
知人の会葬から今帰ったところだ。人はすべて同じところへ行く〔逝く〕のだ。すでに居ない父母、祖父母、曾祖父、曾祖母・・・・が行ったところへ。それでも死が恐ろしいのは、独りで行かねばならないことと、行く場所が、未だ見たことも聞いたこともない所であるからであろうか。
【2006/11/18 10:31】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
昨日、小学校の教師のブログを読んだ。若い教師の熱い実践意欲が感じられた。そして、特に、ここで書きたいことは、そこに見らたその先生と多くの保護者や他校の教師とのブログ上の交流である。私は投稿記事に「教育におけるWEV2.0の時代の新しい波を感じます」と書いたが、実際、そのことを衝撃的に感じ取った。学校教育と家庭・地域の連携の新しい可能性がここにあると思ったからだ。また、指導法研究も校内や近隣校にとどまらず全国、世界的な規模で同じテーマについて関心を持つ教師が意見交換ができる時代が到来したのだ。
【2006/11/17 11:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
終日冷雨。山小屋の冬囲いも終わり自宅の冬囲いのため帰宅し街を歩く。多くの車や人の通りを見ているとこの人々の数だけ世界があるのだなどと考えてしまう。一人一人の見ている世界は微妙に、いや大いに異なるものであるかも知れない。この世界を真の姿を見ているのは、神のみと言うことも出来よう。
【2006/11/16 19:23】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
美空ひばりが「東京ブギウギ」でデビュー、古橋選手が400m自由形で世界新、石坂洋次郎「青い山脈」が新聞掲載。この年、昭和22年〔1947〕に教育基本法が公布された。すでに60年が経過していることになる。本日、その教育基本法改正案が特別委員会で、反対の野党欠席の場合は与党単独可決もあると新聞は報じている。
確かに60年間で社会情勢は大きく変化している。その変化に対応した改正は必要であろう。具体的には、家庭教育と地域の連携、生涯教育、大学制度等があげられる。だが、今回の改訂での問題点となっている愛国心の表現のしかたなどは果たしてそれほど議論する価値があるであろうか。〔それにしてもタウンミーティングでのやらせ発言などあまりにも国民を愚弄した話であるが・・〕第一、ほんとうに今の日本国民に特に愛国心の欠如が見られるであろうか。私はそうは思わない。万が一日本国が危機に遭遇したときには一命を賭して戦う気概はほとんどの人が持っているに違いない。また、入学式などで国旗に敬礼しない、国歌を歌わないなどは、かつてのほんの一部の教員の例にすぎない。小中の義務教育の現場ではそのような例はほとんどなかったのだ。
むしろ、国が教育に必要以上に関与することは、いい結果をもたらさないことが多いように思われる。
かつて、40年ほど前に、文部省は道徳教育の指導の時間〔週1時〕を特設した。〔愛国心・郷土愛の内容項も含む〕青少年の道徳心の涵養を目的としたものであった。しかし、その後、子どもの校内暴力や陰湿にいじめが増加の一途をたどった。文部省は道徳教育の一層の充実を通達し現場では道徳教育の研究会などが盛んに行われた。学校現場は研究発表会に向けての準備に膨大な時間を奪われ子どもと接する時間も少なくなった。道徳に限らず文部省指定、県指定、町村指定の研究会等は総じて子どものためにはならず、むしろ現場を多忙にして真の教育を損なった面が多いというのが実態である。
勿論、それは学校がしっかりとした主体性を持ち得なかったということにも原因がある。たとえば、昭和40年代に文部省は、学校における授業時間の過密ダイヤ化を憂慮し2時間目と3時間目の休みの時間を20分ほどとるように指導した。ところが、全国校長会から、どのようにその時間を利用するか実践例を示してほしいという要望があり、ある学校が業間体育〔全校で縄跳びなどをする〕の実践例の発表会をしたことが元で全国の学校に業間体育が広まった。結果的には、子どもの学校生活をいよいよ過密になったのみならず、汗だくだくという姿で3時間目に臨み学習の開始が遅れるという事態を招いた。
また、現在見直しが叫ばれている総合的な学習も、完全週休5日制への移行の中で如何に時数確保するかという課題に必死に取り組んでいる最中、指導要領改訂で示された学習であった。総合的学習の目的は、自らの課題をもって調べ考えることの喜びと力を身につけることにある。総合的学習は準備と学習の場での手数が多くかかるため、教師達は、指導要領改訂前から実施に向けて研究に多くの時間を費やしてきた。そしてようやく方向が見えてきた頃に、学力低下が大きな社会問題となり、総合的学習は学力低下を加速するものと批判の的になって議論がおこなわれている。だが、何より不可解はその議論は政治家や批評家や学者などで行われ学校現場の教師の参加が非常に少ないことだ。現場で実際に子どもの指導に当たっている一般の教師は総合学習や学力低下についてどのように考えているのかがよく見えてこないということである。管理職ではない一般の教師たちの声は果たしてどれほど集約されて議論に反映されているのであろうか。
教育基本法の改正はあってよいが先に述べたように、家庭や地域が子どもの教育に主体的に取り組める環境づくりや大学制度改革や生涯教育などにポイントがおかれるべきではないか。子どもの教育で学校が出来ることには限界があることをもっと理解すべきである。子どもの育成は、家庭環境と社会環境にその多くを負うものである。そのことを蔑ろにして何でも学校教育に指導要領改訂等で期待することはしてはならない。勿論、教育現場に指導実践を妨げる雑務を上から持ち込むことは厳しく慎むべきことであろう。

【2006/11/15 17:42】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
得意の絶頂で万歳している時の人は最も不安定な体位にある。指の一押しで谷底に転落してしまう。
【2006/11/14 07:02】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
人生は選択の連続である。迷いに迷う選択もあれば、意識に上ることない選択もある。数年に渡って考えた上の選択もあれば、瞬間的に連続する選択もある。つまり、人間の行為の全ては選択の場とも言えよう。プラトンの「国家」戦士エルの物語に出てくる「忘れが原」での選択の場では多くの霊魂が愚かな選択をしていたという。日常の原での我々は果たしてどのような選択しているのであろうか。
【2006/11/13 14:59】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
「あなた」という呼びかけの言葉は何と深い響きをもっていることであろう。それも、相手を人格と認め、心から呼びかける時のこの言葉の持つ意味には限りないものがあると思う。なぜなら、まさに、あなた〔汝〕が存在するところに初めて対話が生まれ、言語が生まれ、精神が生まれるのだから。だが、今日では「あなた」という言語は飛び交っていても、その「あなた」は利用する相手としての存在でしかないことが多いのではなかろうか。
【2006/11/13 13:36】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
朝から霰混じりの木枯らしが吹いている。デスクワークにはもってこいの時節がやってきた。毎日のように雨や雪の日の続く新潟の冬も考えようでは決して悪くない。
【2006/11/12 21:39】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
話をしていて少しも面白くない人がいる。そういう人の大方は、相手のことを話して居ていながら実は自分のことしか話せない人だ。
【2006/11/11 22:01】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
手作りが原則の山小屋生活では、作り始めた頃には様々な困難に遭遇した。車道もなく機械もない場所で一人で整備するとなると不可能と思われることにしばしば直面する。たとえば1m近い地中に埋まった200㎏ほどの石を地上に一人で上げる必要が生じたことがある。チェンブロックがあれば三又を組み簡単に引き上げることができるがそれが出来ないとなると色々考える。考えたあげくに一つの方法に気づく。まず石の周りを掘り、テコ棒となる手頃な生木を切ってきてテコの原理で石の片方をわずかでも持ち上げて出来た隙間に足で土を蹴りこむ。更にもう一方を持ち上げて同じことをする。これを繰り返すと1時間余で地上にあげることができる。何だそんなことか、と笑われるかも知れないが、その方法を思いつくにはそれなりの頭の中での試行錯誤が必要である。それだけに、この方法に気づいたときには喜びがある。そして実現出来たときにも満足感がある。その他、これに類したことは色々あったが、全くお手上げということはなかった。そのためその当時、大抵のことは色々考えるなら解決方法はあるものだという確信を得た気がしたものだ。
ところで、このことは物理的なことにとどまらず人生の人間関係の場面でも当てはまるものだろうか。もちろん石を堀り上げるようなわけにはいかないだろう。第一、石には意志も感情もないが人間にはある。そこに難しさがある。また、「テコでも動かぬゴウツクバリ」などという言葉もある。それにしても、売り言葉に買い言葉等で感情的になることなく冷静に対処すれば、どんなゴウツクバリも動かす手だては、やはりあると思う。
【2006/11/10 18:01】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
今日も穏やかな秋晴れである。午後からカメラを持って山にでかけた。春の芽吹きもよいが秋の紅葉もよい。とくに、自分が好きなのは、山道、それも整備された林道ではなく昔の山道をたどることだ。
しかし、今では旧道は、すっかり荒れてしまい、その痕跡さえとどめない場所も多い。とはいえ、数百年にわたって村人たちが踏みしめた路である。周囲をよく観察してみるとその手がかりは必ず見いだせる。
ところで「道」とは人間にとって何と意味の深い言葉だろう。広辞苑によれば、その意味として「通り道・人として守るべき条理・神仏の教え・道家の教え」などがある。「それでも人は道を歩むことができる」と宿命論者の論定を退けた釈迦の言葉は有名である。
私は、ついさっき、ようやくにして昔の山道をたどり隣の集落に出て帰宅したところだ。それにしても我が故郷の昔の道はもはや消滅寸前である。すでにその有様は、「道」という言葉ののもう一つの意味「人間が落ちる迷いの世界」になりつつある。


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【2006/11/09 15:16】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
立冬の昨日、夜半までは台風並みの木枯らしであったが、今朝はさわやかな日本晴れである。昨日の猛り狂うような霰混じりの強風が吹き荒れた〔瞬間風速33.3m〕あの自然の顔はどこへ行ったのだろうか。だが、これが自然の真正の顔であり我々人間もその自然の一部であれば、特に驚くほどのことではない。我々の喜怒哀楽の感情も何とこの自然に似ていることであろうか。
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【2006/11/08 17:21】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
自分の言葉で哲学しよう!


幼稚と言われてもいい、とにもかくにも、自分の言葉で考えて表現してみよう。人間について、自然について、人生について、毎日一回、素朴な哲学者になって、考えてみよう!

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