夢も見ないほどの熟睡こそ安息そのものであることは誰でも否定しまい。この熟睡の状態に最も近いのが死ではなかろうか。昔から死は「永遠の安息」などという言葉はあるが、実感としては死は恐ろしいものと想ってしまうのも事実であろう。しかし、それでいいのだと思う。人間が死を永遠の安楽として憧れるようでも困るからだ。まさに我々の生は絶妙なるバランスの上に営まれているのだ。
![]() |
どんな重病人を見ても、この人は自分より先に逝くなどとは考えてはならない。
![]() |
人の生き方としては、現前する「大いなる汝」との関係の中に生きることが望ましいものと私は思う。大いなる汝が、祖先〔父母祖父母〕であろうが、阿弥陀仏であろうが、イエスキリストであろうが、お天道様であろうが、常に現前する汝を意識し語りかけて生きることこそ最も人間的な生き方ではなかろうか。
![]() |
気は「生命の原動力となる勢い」〔広辞苑〕であり、これを欠いては、〔肉体のみならず〕精神の背骨を欠くも同然であって理性も人格も在り得ない。我々はいかなる環境に置かれようとも一定の気力を保持する努力を忘れてはならない。
![]() |
特に老後は、明日を憂え思わず、昨日を悔いやまず、今日という日のかけがえのなさを自覚して生き切りたいものだ。
![]() |
人生八十年、人間の一生として絶妙な長さであるのであろう。この長さであればこそ、かけがえのない厳粛なる人生である。200年300年の人生というものを想像してみるがいい。やりきれない弛緩したものとなるのではなかろうか。
![]() |
ある所作一つでその人が何者であるかが鮮明になる。社会における人間と同様に、宇宙における人類も「何が出来る、何を知っている」も大切だが、もっと大事なことは「何者であるか」だ。
![]() |
貧困は幸福の敵であるが、かといって富裕が常に幸福をもたらすわけでもない。今日の日本における家庭の悲劇の多くは富裕がもたらしたものとも言えよう。
![]() |
常に生活を共にする親子や夫婦間で、特に気をつけなければならないことは、とかく相手ばかり見てそれで平気でいることだ。大切なことは、相手が見ている人格としての自分〔相手が人格として見ていようがいまいが〕に目を転じることだ。つまり、自己の人格の中に在って相手と向かい合うということだ。
![]() |
穏やかな秋晴れの日が続いている。村の道ばたのコスモスの花が秋の日差しの中で輝いて見える。その前にたたずんでコスモスの花をしみじみと眺めていると不思議な気持ちになる。心の奥の深いところで、自分が花に語りかけ、花が応えてる、あるいは、花が自分に語りかけ、自分が応えているような気がする。実は、我々は常に意識を越えた心の深奥でこうして自然と語り合っているのではなかろうか。
![]() ![]() |
今朝のNHKのテレビ番組で、キレる犬のしつけ方を具体的な項目をあげて放映していた。犬のしつけは、いい加減にすると飼い主のみならず他人に迷惑をかけることが犬を飼ったことのない自分にもよく分かった。ところで近頃は、人間の子〔幼少期〕の躾についても、このような基本的な事項を明確にして親のみならず社会で見守り育てることが必要と、本気に考えたくなるような現状ではなかろうか。
![]() |
「自己の良心に問うてみる」という言葉には、とても深い意味があるように思う。つまり、それは自己の全人格を傾けて大いなる汝と対話をすることであり、自分で思惟すること、つまり分析、総合、推理、判断することとは、全く別の行為であると私は思うからだ。
![]() |
はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの言葉に、「文明人の頭で考えるという病気」という言葉があった。たしかに、むやみに考えることは健全なる人間のすることではないだろう。とくに我ら老人のすることではない。我らは、自己の生き方を整えるために、歌うように考え、踊るように行動しよう。
![]() |
誰にも馬が合う人と会わない人がある。会わない人ともつきあっていかなければならないのが世間というものである。大抵は、言葉と腹の内は別々で過ごしてしまう。しかし、どうしても、その人に対する気持ちを変えようと思うなら、その人に対する言葉遣いを含めた作法から意識して変えていくことだ。つまり、心を込めた作法をとおして相手の人格と向き合うことだ。
![]() |
人生では、愛する肉親や親しい人たちとの関係が生きる支えとなっていることは誰もが認めよう。だが、もっと心の奥で行われる、大いなる者〔汝〕との関係、祈りと応答については少しも意識していないのではなかろうか。
![]() |
我々の中では「動物」という言葉は「ヒト以外の動物」という言語感覚が一般的である。言うまでもなくそこには、他の動物に対する絶対的な優越感がある。「万物の霊長」なる言葉さえあるほどである。宇宙船地球号の現代は、この言葉に対する感覚〔解釈〕を改めるべきではなかろうか。
このことに納得のできないヒトは鏡の前に立って、自分の耳をじっと見ることだ。大勢集まった人々の耳を眺めてみるのは更に効果的である。 ![]() |
ある写真家のインタビューが、今、ラジオから流れている、地獄谷で撮った猿の親子の写真のテーマについて「今の人間の親子に欠落しているものを感じて」と述べている。
![]() |
どうも、近頃は離婚が多いが、私は、真の人間関係というものは、お互いが「相手にとっての汝〔向かい合う人格〕としての自己」を意識することなくして、つまり、お互いが相手の存在を享受するものと考えるのではなく、お互いが人格として相手の人格に向き合うという努力なくして成り立たないものだと思う。とくにこのことは、他人同士が長く生活を共にする夫婦には大切なことであろう。
![]() |
![]() |
NHK木曜ドラマ「ちいさこべ」が今日で終わった。山本周五郎の原作も良いが役者達もよい。こんなドラマを時々、これからも観たいものだ。
![]() |
このごろ、人のアクビというものを好ましいものと思うようになった。勿論、張りつめた緊急時にアクビをすれば居合わせた者の顰蹙をかう。だが、冷静に考えてみれば、人生には、それほどせっぱ詰まったて大騒ぎすることなど余程でなければないのであって、むしろ、一つのアクビがその場の人々の異常に高ぶった気持ちを正気に戻すことの方が多いのではなかろうか。
![]() |
歳とともに、若い頃に読んだ文学の世界と自分が生きてきた実生活の記憶が渾然としてきているように思う。傾倒した思想家は生身の人間の記憶と、小説の世界は実生活の記憶と大した相違がないような気がする。それは一種の老人性ボケ症状である言われるかも知れないが、自分は、読書が自分の世界を豊かにしてくれたと信じることにしている。
![]() |
北極の荒涼たる雪原に独り立った探検家が「私は、身近に神の存在を感じた」と感想を述べている記事を読んだことがある。埒もない例えではあるが、私は、もしヒトが大宇宙の漆黒の中に誕生し独りで育ったとしたらどのような人間に育つだろうかと、真面目に考えることがある。
![]() |
人間の祈りという行為は、神が存在すれば祈る、存在しなければ祈らないなどという低い次元で論じられるべきものではない。人は意識しようがしまいが、「大いなる汝」とでも言い表したいものの眼前を生きているのではなかろうか。
![]() |
人は誰でもよりよい生き方を悟ることができる。しかし、その悟りを身につけ持続して実践することは至難である。いや、もともと悟りは、身につけることなどできないものなのだ。それは、日々新たに得て、今日の今を生きていくほかないものだ。
![]() |
今夕のNHKの海外ネットワークで韓国とブラジルの社会の貧富両極化について報じている。日本でも格差社会化が問題になっているが、今まで一億総中流意識に浸かっていただけに未だ切実感はないだろう。しかし、それ故にこそ日本の格差社会化は深刻な問題である。新しい内閣が、この問題にどう取り組むか、しっかりと見守っていかなければならない。
![]() |
| 自分の言葉で哲学しよう! |
幼稚と言われてもいい、とにもかくにも、自分の言葉で考えて表現してみよう。人間について、自然について、人生について、毎日一回、素朴な哲学者になって、考えてみよう!
|
プロフィール
|
|
Author:SimoYokote
|
|
|
|
最近の記事
|
|
|
|
|
|
最近のコメント
|
|
|
|
|
|
最近のトラックバック
|
|
|
|
|
|
カテゴリー
|
|
|
|
|
|
FC2カウンター
|
|
|
|
|
|
ブロとも申請フォーム
|
|
|
|
|
|
ブログ内検索
|
|
|