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夢も見ないほどの熟睡こそ安息そのものであることは誰でも否定しまい。この熟睡の状態に最も近いのが死ではなかろうか。昔から死は「永遠の安息」などという言葉はあるが、実感としては死は恐ろしいものと想ってしまうのも事実であろう。しかし、それでいいのだと思う。人間が死を永遠の安楽として憧れるようでも困るからだ。まさに我々の生は絶妙なるバランスの上に営まれているのだ。
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【2006/10/31 11:02】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
どんな重病人を見ても、この人は自分より先に逝くなどとは考えてはならない。
【2006/10/30 19:45】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
例年より3、4日遅れたが、今日から山小屋の冬囲いを始めた。紅葉も進み秋の日差しの中で山が美しい。お昼頃にどこかでツクツクホウシが鳴いていた。時季はずれにしては、気温が高いせいか元気な鳴き声である。それにしても、どうして今頃羽化するのか。地上に出るまでに木の根や岩に突き当たって手間取ったのであろうか。過ぎ去った晩夏を想わせ心地よい鳴き声であるが、空しく哀れにも聞こえる。いくら元気に鳴いても寄ってくるメスはいないであろうから。
【2006/10/30 19:35】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
人の生き方としては、現前する「大いなる汝」との関係の中に生きることが望ましいものと私は思う。大いなる汝が、祖先〔父母祖父母〕であろうが、阿弥陀仏であろうが、イエスキリストであろうが、お天道様であろうが、常に現前する汝を意識し語りかけて生きることこそ最も人間的な生き方ではなかろうか。
【2006/10/29 08:22】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
昔のほとんどの農家では鼠対策に猫が飼われていた。子どもの頃、猫の様子を観察すると我々人間には聞こえないもの、見えないものに常に反応する。猫が急に視線を向けた方向を見ても自分には何も認められないのが不思議であった。人間の能力では捉えられない何かを感知していることは確かであろう。これに類することは犬の嗅覚や、兎の聴覚、その他蚊のような小さな昆虫の様々な能力など我々の知るかぎりでも枚挙にいとまがない。我々ヒトはどうであろうか、確かに科学技術による優れた道具はもっているが、天性の能力は徐々に失いつつあるのではないだろうか。視力や聴力はともかくも、その能力の一つにヒトを人間たらしめてきた感性も含まれているとしたら由々しいことである。20061028.jpg

【2006/10/28 07:17】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
気は「生命の原動力となる勢い」〔広辞苑〕であり、これを欠いては、〔肉体のみならず〕精神の背骨を欠くも同然であって理性も人格も在り得ない。我々はいかなる環境に置かれようとも一定の気力を保持する努力を忘れてはならない。
【2006/10/27 17:09】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
特に老後は、明日を憂え思わず、昨日を悔いやまず、今日という日のかけがえのなさを自覚して生き切りたいものだ。
【2006/10/27 06:27】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
子どもの頃、家に鶏小屋があり十数羽の白色レグホンが飼われていた。餌をくれるのは大人の仕事であったが、水をくれたり、砂浴びの土を入れ替えたり、茶碗の欠けたものを細かく砕いてくれる〔砂袋に入って消化を助ける役目〕のは子どもの仕事であった。そのため、毎日に鶏の集団生活を観察することになるのだが、忘れられないことは、時々鶏の集団の中でいじめ現象が発生したことだ。大勢がよってたかって1羽の鶏の羽を引き抜き、まさに日に日に鳥肌が現れてくる。そして、終いには、肛門から内蔵を引き出すまでに至る。見るに見かねて隔離してやると、また、新たないじめが発生して更に1羽がまた廃鶏同然になってしまうので対応に困ったものだった。しかし、鶏の飼育に詳しい人の助言があり、雄鳥を1羽一緒に飼うことになった。するといじめも無くなり、少しの物音で驚き騒ぐことも無くなった。
今でも、いじめの対象となった鶏が小屋の隅でおびえた様子ですくたまっている哀れな姿を思い浮かべることが出来る。
最近、学校でのいじめが大きな問題となっている。鶏のいじめと同列に論じるつもりはないが、生物の集団生活でのいじめの発生メカニズムという視点で参考にすることが出来るのではなかろうか。
【2006/10/26 10:12】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
人生八十年、人間の一生として絶妙な長さであるのであろう。この長さであればこそ、かけがえのない厳粛なる人生である。200年300年の人生というものを想像してみるがいい。やりきれない弛緩したものとなるのではなかろうか。
【2006/10/25 07:16】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
例年になく3週間ほど続いた秋晴れが終わり、冷たい秋雨の時季に入った。朝起きて庭に出ると今まで感じなかった一種の大気の香りがある。冷たい空気中で草木の葉が朽ちていく重々しい香りとも言おうか。我らの先祖は昔からこうした香りによって、嗅覚からも四季の移ろいを知った。初雪の時季の雪の香り、そして、残雪が解ける時季の土の香り、真夏の草いきれ。視覚は言うまでもなく聴覚によっても同様に四季の移ろいを聴き取って生きて来たのだ。現在の我々は、こうした感性を徐々に失いつつあるのではないだろうか。20061027.jpg

【2006/10/24 09:41】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
道端の地蔵様を拝み、神社の神様を拝み、またお寺の仏様を拝んできた我々の祖先は、家族の息災を祈り、五穀豊穣を祈り、死者の霊の安からんことを祈った。しかし、家族が病み、凶作にあっても、神を責めたり恨んだりしたことはなかった。それは、彼らが、合掌し心を込めて祈りを捧げる時、道端の石地蔵や神社の御神体やお寺の阿弥陀像などを越えた大いなる汝に出会い大いなる汝との関係の中に立ち、自分が大いなる汝〔神〕の中に生かされていることを感じたからではなかろうか。
【2006/10/23 19:52】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
一昨日のクマ出現で心配する家族を背にクマが向かったと放送された方面の山にキノコの撮影にでかけた。腰にクマ防止の鈴を付けた。ブナ林を7時間ほど歩いて、帰路、3時ごろに林道に出たところで一休みした。疲れた。残り少ない水筒のお茶を飲みながら目の前のベニバナボロギクの種子が風に飛ぶ様子をぼんやり眺めていた。西日を受けて白い冠毛をきらきら輝かせて次々に飛んでいく。こうした植物の風に頼る種子の散布の様には、いつも、なぜか夢と冒険のロマンのようなものを感じてしまう。20061022.jpg

【2006/10/22 21:08】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
ある所作一つでその人が何者であるかが鮮明になる。社会における人間と同様に、宇宙における人類も「何が出来る、何を知っている」も大切だが、もっと大事なことは「何者であるか」だ。
【2006/10/21 18:51】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
アンドレジイドは、ソクラテスの「汝自身を知れ」という言葉を有害無益とし、例えて「自身を良く知ろうとする毛虫は、いつになっても蝶にはならないだろう」と述べている。だが、私は、毛虫は自分が毛虫であることを知ったからこそ、蝶になれたと考えたい。我々は自分が地球上の生物の一種のヒトであることを忘れてしまっているがために、ヒトにあるまじき戦争やテロあるいは自然破壊など残酷非道なことを行ってきているのではなかろうか。
【2006/10/21 17:50】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
今日の新潟日報にヒマラヤカモシカを密猟者から守る山岳パトロール隊の過酷な戦いについての記事がある。記事の最後は、「ココシリ周辺では鳥葬の習慣が今も残る。鳥が遺体を天に送り届け、また、肉体を他の生命のために布施する意味もあると言われる・・・・」そして、密猟者に殺された隊長ツァイガの「全ての命は平等だということだ。それは人間でも動物でも変わらない」という言葉で結んでいる。
ブロガーの性で、一言でもコメントを書きたいところだが、要らぬことだろう。
【2006/10/20 17:03】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
たった今、村の防災放送で我が故郷にクマが出現したことを報じている。私はこのところ一日おきに山にキノコの撮影に入っていたのだが、獣一匹見かけなかったので意外であった。昨年大豊作であったブナやナラは今年は結実が少ないため、屋敷内に植えられた栗や柿の実を求めてやって来るのであろう。我が故郷も近年、子ども時代から見たことのなかったキツネやテンなどもよく見かける。そればかりか希にカモシカやクマの姿も見かけるようになった。とくにクマの出現はこのところ全国各地で報道されているが、「猟友会が駆除した」と一件落着の報道で終わっている。だが、考えてみれば、自然は人間だけの住処ではないのであって、クマにも当然、居住権がある。どうも里山が荒れるにつれて人間と獣の棲み分けが定かでなくなってきていることが問題点に思われる。たしかに、過疎化老齢化が進む我が故郷では、村の周辺の田畑が放棄され原野が人の居住地内に年々迫りつつある。それにしても、この国の地方切り捨ては留まる気配もない。地方分権、地方の時代、美しい国づくり・・・・空しい言葉だけが飛び交う。クマも村人も憤懣やるかたないというところであろう。
【2006/10/20 14:11】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
今日の午後、植物タコノアシの撮影にでかけた。タコノアシは本州から九州まで分布するが、最近、環境の変化により激減している植物の一つである。我が故郷でも、私が知る限り一カ所しか自生していない。もともと、タコノアシは普段は陸地であって増水したときに水をかぶるような土地を好むという気むずかしい植物なのだ。そのため河川工事や水田や水路の改良で居場所が無くなってしまったのであろう。今では、絶滅した地域も多く環境省の絶滅危惧種に指定されるに至った。勿論、タコノアシという名は体を表すが、なかなか草姿は、きりっとしていて花穂はまさにタコノアシでなかなか忘れ難い植物である。
※写真の我が故郷のタコノアシには、山深いどん詰まりの小さな水田の畦で出会った。私は狂喜し早速その水田の耕作者を尋ねると、昔〔50年前〕村の青年団で夜な夜な夜遊びに興じた悪ガキ仲間であった。早速、電話で「あそこの田の畦のタコノアシを刈るなよ」と申し込んだところ、「俺はタコノアシなど知らねぇ、畦草刈らんわけにはいかん」というやりとりとなり、仕方なく、タコノアシの貴重なことを説明するために一升下げて訪れ、ようやく納得してもらうことにあいなった。お陰で二人とも遠く過ぎ去ったほろ苦い青春時代を夜の更けるまで懐かしむことができたし、数十本のタコノアシも刈り取られることもなく下の写真のとおり生き延びたと言うわけである。
takonoasi201x.jpg

【2006/10/19 19:28】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
貧困は幸福の敵であるが、かといって富裕が常に幸福をもたらすわけでもない。今日の日本における家庭の悲劇の多くは富裕がもたらしたものとも言えよう。
【2006/10/18 16:32】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
常に生活を共にする親子や夫婦間で、特に気をつけなければならないことは、とかく相手ばかり見てそれで平気でいることだ。大切なことは、相手が見ている人格としての自分〔相手が人格として見ていようがいまいが〕に目を転じることだ。つまり、自己の人格の中に在って相手と向かい合うということだ。
【2006/10/17 20:39】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
穏やかな秋晴れの日が続いている。村の道ばたのコスモスの花が秋の日差しの中で輝いて見える。その前にたたずんでコスモスの花をしみじみと眺めていると不思議な気持ちになる。心の奥の深いところで、自分が花に語りかけ、花が応えてる、あるいは、花が自分に語りかけ、自分が応えているような気がする。実は、我々は常に意識を越えた心の深奥でこうして自然と語り合っているのではなかろうか。kosumosu.jpg

【2006/10/16 17:30】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
博物館で「なつかしの昔の暮らしの道具展」を見た帰りに久しぶりに海岸を歩いた。日本晴れのもと海は穏やかで海風が心地よかった。昔の道具展では子ども時代を思い出したが、海の匂いを嗅ぐと高校生時代を思い出した。自分は昭和29~31年をこの街の海に近い下宿屋で過ごした。山育ちの自分は、学校帰りに海岸沿いの道を通って日没を眺めるのが好きだった。
もし、今、自分が当時の「なつかしの生活展」を開くとしたらどんなものを展示するだろうか。まず、本だ。新潮文庫のニーチェの「反時代的考察」岩波文庫の「戦争と平和」「アンナカレーニナ」「カラマーゾフの兄弟」「ファウスト」白水社の「モンテーニュ随想禄」、そして石原慎太郎の「太陽の季節」が掲載された雑誌「文学界」も並べよう。壁には映画のポスター、「砂塵」「ローマの休日」「エデンの東」。そして、BGMには春日八郎の「別れの一本杉」と江利チエミの「テネシーワルツ」でも流そうか。夕日に光る海を眺めながらとりとめのない空想にふけった。それにしても、あれから半世紀が過ぎたとは・・・・。20061015ax.jpg

【2006/10/15 19:04】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
今朝のNHKのテレビ番組で、キレる犬のしつけ方を具体的な項目をあげて放映していた。犬のしつけは、いい加減にすると飼い主のみならず他人に迷惑をかけることが犬を飼ったことのない自分にもよく分かった。ところで近頃は、人間の子〔幼少期〕の躾についても、このような基本的な事項を明確にして親のみならず社会で見守り育てることが必要と、本気に考えたくなるような現状ではなかろうか。
【2006/10/14 21:11】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
「自己の良心に問うてみる」という言葉には、とても深い意味があるように思う。つまり、それは自己の全人格を傾けて大いなる汝と対話をすることであり、自分で思惟すること、つまり分析、総合、推理、判断することとは、全く別の行為であると私は思うからだ。

【2006/10/13 06:12】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
穏やかな秋晴れの昨日の午後、隣村の集落にキノコ撮影にでかけた。村道で一軒の廃屋の前を通ったときに柱にか刻まれた文字が目にとまった。近づいてみると、文字の一部は消えてはいるが他は読める。どうやら、離村した家主が書いたものらしい。「満9ケ年経過。里帰り14回目。平成12年9月14日、夕方着。 家主 ○○○平治 69才○ヶ月」とある。おそらく都会に住む子どものもとに引っ越した者であろう。たった30字ほどの文字であるが、私はしばらく文字から目を離すことはできなかった。その数百倍の文字でも表現できないほどの家主の気持ちが、ひしひとと伝わって来るように感じたからだ。故郷の生家を60才で離れたにはそれ相当の理由があってのことであろう。やむなく都会で暮らしてみれば、雪こそ降らないが、草花を植える庭もなく、話相手にも恵まれない寂しい生活ではなかったであろうか。望郷の念は募るばかりで毎年二回ほどの帰郷を一日千秋の思いで待っていたのかも知れない。そして十年が過ぎようとするこの日の帰郷が最後かもしれないという思いがこの文字を刻ませたのかも・・・・。柱の根本の草むらでコオロギの鳴き声がしきりとする。かつては50軒もあったが今では数軒に激減した集落は秋の日差しの中で静まりかえっている。ふと我に返った私は、「まてよ、これは自分の思い過ごしであろう。この家主は今も壮健で過ごしていることだろう。そのうちこの集落の人に会って尋ねてみよう。」と心に決めてその場を立ち去った。20061012.jpg

【2006/10/12 15:16】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの言葉に、「文明人の頭で考えるという病気」という言葉があった。たしかに、むやみに考えることは健全なる人間のすることではないだろう。とくに我ら老人のすることではない。我らは、自己の生き方を整えるために、歌うように考え、踊るように行動しよう。
【2006/10/11 06:30】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
誰にも馬が合う人と会わない人がある。会わない人ともつきあっていかなければならないのが世間というものである。大抵は、言葉と腹の内は別々で過ごしてしまう。しかし、どうしても、その人に対する気持ちを変えようと思うなら、その人に対する言葉遣いを含めた作法から意識して変えていくことだ。つまり、心を込めた作法をとおして相手の人格と向き合うことだ。
【2006/10/11 05:52】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
茶道というものついて、私は全然心得はないが、興味だけは以前からもっていた。一期一会の心でもって客を遇すという。そのためには、客を迎える心の準備、場の準備、そして、当日の接待。その全ての行為一つ一つに亭主の心は集注する。それに客人も応える。いわば、亭主と客は、汝と我の関係の中に全人格を傾けて向き合う。その場には一種の雰囲気が醸し出される、それは「精神」と表現しもよい。それこそ「真の充実した現在」というものではなかろうか。
ただの宿六に過ぎない自分が脇から眺めた昨日の茶会の感想である。
20061010b.jpg

【2006/10/11 05:09】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
我が山小屋で茶会をしたいという物好きな人があり、昨日、久しぶりに庭の掃除をした。庭というものは植木一本、庭石一つなくとも、手入れがゆきとどき、箒の跡がついていれば名園に少しもひけをとらないものだ。特に我が山小屋のように山深いところにあれば借景に恵まれ、周りには、林あり、水の音あり、鳥の声ありである。そして、今が盛りのサラシなショウマの花がある。まさにこれこそが究極の庭でではないかと、掃除後、自画自賛し大いに満足した。
確かに、どれほどの銘木銘石があっても草茫々では庭とは呼べないばかりか、銘木や名石などは無い方が自然そのままで、よほど良いだろう。
20061010.jpg

【2006/10/10 05:56】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
人生では、愛する肉親や親しい人たちとの関係が生きる支えとなっていることは誰もが認めよう。だが、もっと心の奥で行われる、大いなる者〔汝〕との関係、祈りと応答については少しも意識していないのではなかろうか。
【2006/10/09 06:47】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
我々の中では「動物」という言葉は「ヒト以外の動物」という言語感覚が一般的である。言うまでもなくそこには、他の動物に対する絶対的な優越感がある。「万物の霊長」なる言葉さえあるほどである。宇宙船地球号の現代は、この言葉に対する感覚〔解釈〕を改めるべきではなかろうか。
このことに納得のできないヒトは鏡の前に立って、自分の耳をじっと見ることだ。大勢集まった人々の耳を眺めてみるのは更に効果的である。
【2006/10/09 06:27】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
自分の言葉で哲学しよう!


幼稚と言われてもいい、とにもかくにも、自分の言葉で考えて表現してみよう。人間について、自然について、人生について、毎日一回、素朴な哲学者になって、考えてみよう!

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