ご無沙汰しております。
ただいま、HP「石黒の方言」の音声化に取り組んでおり、四苦八苦の毎日です。シンプルな方法を採用すればよいものを色気をだしてiframeを使って制作をはじめたところトラブル発生の連続で悩んでいます。昨日もアップしたものが自分の二台のPCにはリンクが混乱したものが現れ、ビスターの一台のノートには正常に出ます。他の10数人の人に見てもらうといずれも正常というのです。
人間、色気を出すとろくなことがありませんが、この世界の色気は、特に老化した脳の持ち主には禁物のようですね。
おかげで貴兄のブログの勉強もなおざりになっています。
因縁にとらわれた我々俗人は、その因縁ゆえに、さらに二重三重と因縁に捕らえられてしまうことも多々あるのではないでしょうか。自分も貴兄のような悟りをめざした真摯な生き方をしたいものだと時々思います。道元の言葉、「一生百歳のうちの一日はひとたび失わん、再び得ることなからん・・・」毎日仏前で読んでいますが、発声練習にすぎないのが私の場合です。これからもご指導ください。
【2008/06/10 04:48】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
ブログ拝読しました。因縁について更に深く学んだような気がします。とくに、「因縁が正しければ、物事の正しい面に出合うことができる」という言葉に注目しました。この場合の正しい因縁とは、正しいものの捉え方、感じ方ということになるでしょうか。考えてみれば科学も強力なる因縁の世界であります。しかし、貴兄が説かれる因縁は、科学の因縁を包含したもっと大きな因縁の世界のことでありましょう。私の祖母は、朝起きると上る太陽に向かって両手を合わせて拝んでいました。科学少年であった自分は、祖母の無知をそこに見たものでありました。ですが、古希を迎えた現在は、そこに祖母の豊かに心を感じます。つまり、かけがえのない自己の命を自覚し感謝・お蔭様の気持ちが生まれてきたからでしょう。科学の世界には感謝などという因縁はないでしょうが人間の精神界では大きな因縁の一つではないでしょうか。 
【2008/04/30 04:44】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
ブログ拝読しました。「私たちは広大な道理(大因縁)による知恵の力によって構築された社会の中で生活している」そのとおりだと自分なりに思います。そして、「時代の流れに応じて、好ましい大因縁の力が働き、人間の研究意欲が時代の流れを変えていく」ことを信じたいと思います。
しかし、現実には、貧困やイラク、アフガンでの宗教対立と大国の介入により多くの命が失われている現状を
を考えると、好ましからざる大因縁の力が働いているようにも想われます。でも、こうしたことが、これまでの人類の歴史上に多くあったことを考えるなら、そのような負の因縁力をより大きな正の因縁力が働いて、今日に至ったのだとも考えることが出来ます。それにしても、今日の環境問題、より多極化した南北問題〔格差問題〕、過度の競争社会、民族宗教対立等々、「好ましい大因縁の力が働き、人間の研究意欲が時代の流れを変えていく」ことがどうしても必要と想われます。それには、新しい哲学、新しい経済学、新しい仏教等が「あるがままに、妄想もなく、真実をみる」ことから興隆することが望まれるのではないでしょうか。現在では、我々一般人には、そうした希望に応える哲学も宗教も伝わってきません。「好ましい大因縁の力が働く」ためには、その時代の流れを変える突破口となるエネルギーがどうしても必要と思われます。それには貴兄がご指摘のように「正しい教育」が必要であることはいうまでもありません。そして、その教育の基となるものは新しい世界観、人間観、を構築する新しい哲学〔宗教〕ではないでしょうか。
悲観的に考えるなら、現代はすでに、「高度に発達した生物は滅びる」という神の手が人類にむけて伸びてきているようにも想われます。たとえ人類が滅びてもすでに一億年も前から生息している昆虫などが地球上でこれからも生きていくことでしょうから、まさに、貴兄の言葉通り「衆生界と法界にはともに、欠けることも満ちることも認められない」ことになります。
貴兄の示された文章の意味を正しくとらえることは出来なかったと思いますが、自分なりに考えさせていただき感謝します。七十にもなると思考能力も減退するばかりか、思考することをわずらわしく感じることもあります。今後もよろしくご指導ねがいます。
【2008/04/21 09:29】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
いつものことながら、興味深く拝読しております。
私は、ブログ上で貴兄の謦咳に接するようになってから、「因縁-理解、認識」ということを深く考えるようになりました。まさに、我々個々の人生の価値観も人類文化の価値観も人間固有因縁〔煩悩〕の上に成り立っているものであると思います。このことから貴兄の「例えば、ある問題について、十分に考えた結果であるとか、体験済みであるとか、あるいは時間や年数をかけて深く追究し思索した結果であるからということで、問題の全てが明らかになったと決め付けてはいけない」という言葉はとてもインパクトを持っています。わが師モンテーニュも『自説に固執しする」ことの愚かさを随想録の随所で説いております。若いときは、読書したり思索をしたりしていくなら何時か確たる真理を獲得できる、悟りの境地に達することが出来るものと考えいました。しかし、古希を迎えた今もまるで昔の変わらない、いや肉体の衰えた自分を感じます。そして、お陰で貴兄のいわれるところの『因縁』ということと人間の理解、認識というものの関わり、あるいはからくりのようなものが少しずつ見えてきたように思います。知恵の完成は空相ということであれば、この考えもまた一つの因縁による考え方とも言えましょうが・・・。私は、仏教的な理解はできませんが、日常生活の中で己を捉える喜怒哀楽の背景にある因縁、煩悩の正体を忘れず生きたいと思っております。残されたかけがえもない日々をくだらない因縁によって台無しにされることのないように努力していきたいと思います。ご指導ください。
【2008/04/13 13:08】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
親愛なる友へ
 HP制作上のトラブル発生で、数十時間のロスタイムなど日常のこと、楽しみにしていた貴兄のブログを拝見するのが遅くなりました。
ようやく、今朝拝読しました。

 今回は、哲学的に読みとっても、哲学の核心にふれた考え方が語られているようには思ますが、難解ですね。
 いつものとおり浅学で独断的な私の解釈ではありますが、人間の認識と事物の存在の実相を宗教的な見地から喝破した文章と思います。
 確かに、我々俗人を苦しめ悩ました事物も、「因縁」が切れたときには、一体そのようなものがどこに存在したのか、と言いたいほどにきれいに「滅」し去っているように思います。
 つまり、人間の心を捉えて離さなかった事柄も因縁が切れたときには、興味も関心もない自分には無縁な事となります。
 このことを更に発展的な考えると、他の色々な事象についても当てはまるように思います。
 地動説は現代人の常識ですが、ほとんどの人は太陽や月が動いているという感覚の中で生きています。しかし、だれも地動説を否定する者はありません。
 我々は、地動説も天動説も超えた現実のなかで生きているわけです。同様の意味で、我々は生も死も超えた現実の中で生きているのではないでしょうか。しかし、死は避けることはできない現実です。
 貴兄の言葉を借りれば死は因縁によって我々の心に生じます。不治の病の診断を受けたときには、我々は死の観念に昼夜悩まされることになります。しかし、それが誤診であったとなれば死について想うことはなくなり、今度は、生の中で様々な事で悩まされることになります。
 貴兄の言われる「涅槃の究極」とは、この捉われの世界を超えた世界、つまり涅槃の世界のことでしょうか。
「涅槃(の究極)はことばによって表現されえず、すべての言語表現の断たれているものである」とありますが、まさにそれは、その人間の心の世界でしか感得することができない悟りの境地であるといえるのではないでしょうか。

 まことに、見当はずれな解釈とお叱りを受けそうな気がしますがこの歳になると、色気もなくなり、諸説を自分の能力内で自分流に自由に解釈することで開き直って生きております。
ご指導をお願いします。
【2008/03/31 10:06】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
自分の言葉で哲学しよう!


幼稚と言われてもいい、とにもかくにも、自分の言葉で考えて表現してみよう。人間について、自然について、人生について、毎日一回、素朴な哲学者になって、考えてみよう!

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